第一章 終活のすすめ ~中編~

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「どうか御心をお鎮めください、井戸を守るものよ」 (井戸を守るもの?) 社長は床下に跪いたまま、井戸に向かって話りかけた。 井戸のふちを、無数の赤黒い影がざわざわと這い回る。 トカゲのような形をしているけれど、明らかにトカゲではない。ぬらぬらと光る鱗の無い表皮に、血が散ったような赤いまだら模様。 (……そうか、これは井守(いもり)だ) 「お初にお目にかかります。私は御堂東雲と申します」 井守たちは顔と尾をもたげ、体の裏側の赤い表皮を社長に向けた。おそらく威嚇行動だろう。 「知らずとは言え、先人があなたがたの領域を穢した咎を、心よりお詫び申し上げます。どうかお赦(ゆる)しください」 清酒を盃に注ぎ、床に手をついて深々と頭を下げる。 『――――赦さぬ』 一拍置いて、低くしゃがれた声が応えた。 まるで頭の中で直接響くかのように、鼓膜の内側にどろりと潜り込んでくる。 『汝ら人間は水神様の恵みを受けながら、その御恩を徒(あだ)で返した。此処を蔑ろにし、畏れ多くも水神様をおとしめ、幾多の同胞を屠り、水を腐らし気を濁らせ、塵芥を閉じ込めた』 声に共鳴するかのように、井戸の中の気配が蠢いた。 「その罪を、どうか償わせてください。井戸を清め、再び……」 『もう、遅い。何もかも』 説得を遮るように、井戸から昏(くら)い声が響き渡る。 小さなイモリたちが一斉に井戸の中へ引っ込んだ。 入れ替わるように、井筒からひときわ大きなイモリがずるりと這い出した。 イモリと呼ぶにはあまりに大きい。体長は一メートルに届きそうだ。 『井戸神様はお隠れになった。もう二度と、戻られぬ』 そう言って、大井守は短く戦慄(わなな)いた。鼓膜を引っ掻かれるようなわめき声に、とっさに手で耳を塞ぐ。 老秘書が目を見開き、俺を見た。 「……やはり、君には聞こえるのですか」 「え?」 「私には、井戸の中のものの声が聞こえないのです。辛うじて、その姿を見ることが出来るだけ……」 視界をよぎった不吉な色に、ぶつりと会話が途切れる。 井戸を囲むしめ縄が変色し始めていた。縄はくすみ、紙垂の端がじわじわと黒ずんでゆく。 まるで、ものすごい速さで腐っているかのように―――― 「お鎮まりください。あなたの怒りはもっともです。ですが、どうか怒りに囚われないでください」 井戸の守り手へ語りかける社長の声に、焦りが混じりはじめた。
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