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『吾(われ)はもう、守り手ではない。時は満ちた。これより汝ら人間が、己が報いを受ける時だ』
どす黒い色をした何かが、井戸からじわじわと湧わき出している。墨のようなそれに濡れたしめ縄が、一瞬で溶けて消えた。
じわじわと、井戸に満ちた黒い湧き水が床下にあふれ出す。
『もはやこの身が涸れ尽きるまで、此処で疫を垂れ流すのみ』
「お願いです。怒りに囚われて、御身を魔道に堕とさないでください。私は、あなたを傷つけたくはないのです!」
今は辛うじて防がれていたが、そのしめ縄もどんどん腐蝕が進んでいた。この様子では、結界が朽ちるのも時間の問題だろう。
『吾を祓うか、娘。たとえこの身が滅ぼうと、常世の門は開かれつつある』
「そんな……」
大井守の黒い背に、無数の赤い斑点が煌々と浮かび上がった。
ついに縄の一部が腐り、ぶつりと切れる。堰を切ったように、黒い水が床下に流れ出した。
しかし社長は気付いていないのか、床下に跪いたままその場から動こうとしない。
「危ない!」
腕を掴み、半ば無理やり体を引き起こす。社長が我に返ったように俺を見上げた。
「彼岸坂君」
「しめ縄が切れました。あの黒い水に触れるのは」
分かっています、と自分に言い聞かせるように呟き、体勢を立て直す。が、どこか上の空の声だった。
間髪入れず、背後で何かが崩れる重い音が響く。
「おい、どうしたんや!」
体勢を崩した老秘書が、根太につかまっていた。
「ニコ!?」
悲鳴じみた声が床下にこだました。
しかし駆け寄ろうとして、社長は踏み止まる。井戸と老秘書を見比べる顔に、苦渋が浮かんだ。
おそらく、彼女はこの場を離れるわけにはいかないのだ。
急いで老秘書に駆け寄り、肩を貸す。
「なんでか分からんけど、急に倒れたんや」
杉内氏がオロオロと様子を窺う。
顔がひどく青かった。玉のような汗が顔中にびっしりと浮いている。
「ニコルさん!」
「問題ありません、瘴気に当てられたのでしょう。私はいいから、どうか、お嬢様の……社長のそばに」
息も絶え絶えに言われても、自力で立つのもやっとな人間を放っておけない。
細身の割に重い体を、何とか床下から引っ張り上げた。柱にもたれ掛かるように、剥がした畳の上にずるずると座り込む。
その間にも、黒い水は次から次へと井戸から溢れ、床を浸してゆく。しめ縄はすでにボロボロに朽ち、結界の用を成さなくなっていた。
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