第一章 終活のすすめ ~中編~

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「ああ、間に合わない……」 ぽつりと漏らした呟き声が、かすれて裏返る。 社長はがくりと肩を落とすと、手で顔をおおった。 ふと井戸に違和感を覚え、目を凝らす。 黒い水にまぎれて、小さなイモリたちが井戸の中からぞろぞろと這い出してくる。 異臭の元は彼らなのか、部屋に充満するにおいがひときわ強くなった。 「……ごめんなさい」 無数のイモリが進む先には、立ち竦んだ社長がいる。 慌てて床下に飛び降りた。社長の足元に、ポケットの中の粗塩を振り撒く。 幸いにもイモリたちはひるみ、塩を避けるように後退した。 「社長、ここは危険です。ひとまず畳に上がりましょう」 じわじわと、墨のような水が床下に広がってゆく。防水の作業靴に心から感謝した。 「社長!?」 しかし社長はうつむいたまま、井戸の前から動こうとしなかった。 「社長、どうしたんですか? 社長!」 白い顔からみるみるうちに生気が失せた。 辛うじて自力で立ってはいるが、大きな瞳は虚ろに宙をさまよい、視線が合わない。肩を揺さぶっても、腕を強く引っ張っても、全く反応を示さない。 まさか、彼女はこのタイミングで気を失ってしまったのか。 背後を振り返るが、座る体勢すら保てず床に倒れた老秘書と、その周りを右往左往する杉内氏しかいなかった。 (くそっ、どうすりゃいい!?) 苦し紛れに足元に塩を撒くが、間近まで迫った黒い水にあっけなく流された。じりじりと、赤と黒の群れがこちらに距離を詰めた。 とっさに社長の前に立ちはだかる。井戸の淵で、大井守は煌々と光る赤い目で俺たちを睨んでいた。 (この際、あの大井守を……) 足元には老秘書が用意した供台がある。無数のイモリを相手にしても、キリがない。塩や清酒を直接、大井守にぶつけるか、井戸の中に放り込んでみるか。 しかし背後には社長がいる。杉内氏も、瘴気に蝕むしばまれて動けない老秘書も。 俺一人ならともかく、他の3人を巻き込んでイチかバチかの賭けは出来ない。 頭を抱え込みそうになったその時、ふと背筋に寒気が走った。 「――――どけ、小僧」 真後ろで、耳に馴染みのない低い声が響く。 次の瞬間、俺は宙に浮いていた。視界ががくんと反転する。 「……は?」 「邪魔だ」 浮遊感に襲われたのも束の間、目の前に壁が迫った。 染みついた癖でとっさに受け身をとるが、壁に、畳にしたたかに体を打ちつけ、畳の上を転げまわる。
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