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「ああ、間に合わない……」
ぽつりと漏らした呟き声が、かすれて裏返る。
社長はがくりと肩を落とすと、手で顔をおおった。
ふと井戸に違和感を覚え、目を凝らす。
黒い水にまぎれて、小さなイモリたちが井戸の中からぞろぞろと這い出してくる。
異臭の元は彼らなのか、部屋に充満するにおいがひときわ強くなった。
「……ごめんなさい」
無数のイモリが進む先には、立ち竦んだ社長がいる。
慌てて床下に飛び降りた。社長の足元に、ポケットの中の粗塩を振り撒く。
幸いにもイモリたちはひるみ、塩を避けるように後退した。
「社長、ここは危険です。ひとまず畳に上がりましょう」
じわじわと、墨のような水が床下に広がってゆく。防水の作業靴に心から感謝した。
「社長!?」
しかし社長はうつむいたまま、井戸の前から動こうとしなかった。
「社長、どうしたんですか? 社長!」
白い顔からみるみるうちに生気が失せた。
辛うじて自力で立ってはいるが、大きな瞳は虚ろに宙をさまよい、視線が合わない。肩を揺さぶっても、腕を強く引っ張っても、全く反応を示さない。
まさか、彼女はこのタイミングで気を失ってしまったのか。
背後を振り返るが、座る体勢すら保てず床に倒れた老秘書と、その周りを右往左往する杉内氏しかいなかった。
(くそっ、どうすりゃいい!?)
苦し紛れに足元に塩を撒くが、間近まで迫った黒い水にあっけなく流された。じりじりと、赤と黒の群れがこちらに距離を詰めた。
とっさに社長の前に立ちはだかる。井戸の淵で、大井守は煌々と光る赤い目で俺たちを睨んでいた。
(この際、あの大井守を……)
足元には老秘書が用意した供台がある。無数のイモリを相手にしても、キリがない。塩や清酒を直接、大井守にぶつけるか、井戸の中に放り込んでみるか。
しかし背後には社長がいる。杉内氏も、瘴気に蝕むしばまれて動けない老秘書も。
俺一人ならともかく、他の3人を巻き込んでイチかバチかの賭けは出来ない。
頭を抱え込みそうになったその時、ふと背筋に寒気が走った。
「――――どけ、小僧」
真後ろで、耳に馴染みのない低い声が響く。
次の瞬間、俺は宙に浮いていた。視界ががくんと反転する。
「……は?」
「邪魔だ」
浮遊感に襲われたのも束の間、目の前に壁が迫った。
染みついた癖でとっさに受け身をとるが、壁に、畳にしたたかに体を打ちつけ、畳の上を転げまわる。
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