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陽の差さない、奈落のような闇の底に閉じ込められてなお、主様は井戸を離れようとはなさらなかった。
水神様が共に幽谷へ戻ろうと何度お誘いになっても、最後まで首を縦に振ることはなかった。
「そなた、どうしても残ると申すか」
「私は井戸神。此処を捨てることなど、できるはずもございません。それに、井戸はまだ生きております。あと百年も待てば、再び水が甦えることもありましょう」
気長に待っておりますと笑う主様に、水神様は苦々しいお顔で戒めを残された。
「人という生きものを過信してはならぬ。ここに水が戻る前に、地も川も、山も荒し尽くされよう」
水神様のお見立ては的中した。
時の流るるとともに更に山は削られ、水は濁り荒すさみ、地も気も汚れてゆく。
地が、水脈が、塞がれた井戸が汚穢で澱んでゆくのをなぞるように、主様のお力もどんどん弱っていった。
主様の霊威で現世に顕現していた吾も、また然り。
吾はあっという間に力を失い、現世に留まることが出来なくなった。
かと言って主様を見届けることすら叶わず、露と消え失せることなど出来ず、化生に身を窶(やつ)して常世に下った。
主様が坐す間、井戸に再び水が湧くことはついぞ無かった。
皮肉にも再び水が少しずつ戻り始めたのは、先の地異より百年の歳月が流れ、再び起きた地異の後のこと。
水脈が戻ると同時に、奇しくも井戸の底と常世への通い路も繋がった。
先の地異により、現世と常世を隔てる各地の境界が綻んだためだった。
しかし再び戻ってきた井戸に主様の御姿はすでになく。濁り、澱んだ水には人間どもが沈めた塵芥だけが残っていた。
何故、一時でもおそばを離れてしまったのか。
何故、吾は水神様の元へ行くよう主様を諫められなかったのか。
どれだけ自分を責めても、人を、天運を恨んでも、井戸が清められることも、主様が戻られることもない。
奈落にも似た井戸の底でその御命が果てるまで、主様は一体何を考えていらっしゃったのか。
答えてくださる御方はもういらっしゃらない。
ならばせめて、主様の無念とこの怨みは吾が果たそう。
そのための力も瘴気も、常世には至る所に散らばっていた。それを何年もかけてより集めてゆくうち、穢も毒も充分に満ちた。
この身にためた瘴気を現世に放てば、それは疫(やまい)となるだろう。
せいぜい、この卑しい命が尽きるまで――――――――
『人間を、呪い尽せばいい』
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