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とっさに振り返る。
老秘書は畳の上でうずくまり、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返していた。額には玉のような汗がびっしりと浮いている。
「ニコルさん!」
あわてて畳の上に這いあがり、駆け寄る。
苦しそうに見開かれた目は充血し、血走っていた。先ほどまで青ざめていたはずの顔は、今はひどく紅潮している。
額や首筋に手を当てると、驚くほど熱い。
(大井守が言った“エ”って、まさか……)
「疫病」の「疫」かもしれない。
とにかく、彼を書斎から遠ざけなくてはならない。腕を肩に回したその瞬間、老秘書は俺の襟首をつかんだ。
「彼岸坂君」
病人とは思えない力で、互いの息がかかるほど近くまで引き寄せられる。
苦しそうな灰色の瞳が、真正面から俺を見据えた。
「私に構わず、どうかあの御方を止めてください」
「で、でも」
「もうすぐ……が来ます。どうか、それまで」
「ニコルさん?」
息も絶え絶えにそこまで言って、老秘書はがくりと気を失った。
しかし「あの御方」と言われても、社長と大井守、一体どちらを指しているのか分からない。
「に、兄ちゃん……あれ……」
杉内氏が腰を抜かし、畳にへたり込む。
震える指がさした先には、井戸が――――煤煙のような黒い靄(もや)が、井戸の中から噴き出していた。
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