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間章 井戸の守り手
水神様の社には、清水の湧く井戸がある。その恵みは生きとし生けるもの全ての渇きを癒し、陸を潤していた。
大地に染しみ入る雨水を濾(こ)し、山より流れ落ちる雪解けの水を集わせ、龍脈に乗せて流し巡らせる。
そうして湧いた井を清らかに保つ役(つとめ)を、吾が主は水神様より仰せつかっていた。
「主さま。人間は何故、水を奪いあうのですか」
昔、一度だけ主様に問うたことがある。
どちらが先に水を汲むかというくだらない理由で、卑しくも主様の御前で人間どもが諍(いさか)いを始めた時のことだ。
主様はほんのひと時だけ湧き水を堰き止め、お答えになった。
「お前たちと違って、人は難儀な生き物だからです。自らを潤し、清めることのほかにも、多くの水を使わずしては生きてゆけない。水が何物にも代えがたいと知っているからこそ奪い合い、崇める」
井戸端でいがみ合う人間たちを見遣り、少し寂しそうに微笑んだ。
「しかし、水とは常に廻(めぐ)るもの。皆に使われることで、この水も廻り続けることが出来るのですよ。こうして流れを止め、いつまでも一所に留まらせれておれば、いずれ澱みすえてしまうでしょう?」
水を求めるのは、生きとし生けるものの性であり営みに過ぎない。
あまり人を疎まず蔑まず、長い目で見守っておやりなさいと諭し、主様は吾の背をそっと撫でてくださった。ひやりと冷やこいお指が、いみじくも心地よい。
まるで赤い実を散らしたような背の斑模様になぞらえ、主様は吾を「南天」とお呼びになった。
清らかなお声で名を呼ばれるたび、主様にお仕えする喜びと誇らしさが胸にあふれた。敬慕の情はいっそう募る。
どうか終生を賭して、この御方のかたわらに。
そう心に誓っていたにも関わらず、先に魂の灯が尽きてしまったのは主様の方だった。
先の地異の後、人間どもは何を思ったのか山を切り崩し、川を堰き止め、埋め立て始めた。
水脈を断ち切り、真上に固い道を敷き詰め、何を考えたのか水神様の社を遠く離れた地へ移してしまった。
たちまち水は濁り、気は滞る。
社を奪われた水神様がこの地を去ると、井戸は枯渇した。
そうして枯れ井戸に用は無いと言わんばかりに、人間どもは主様の井戸を塞いでしまった。
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