最終章 貴方と溽暑にまどろむ

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あの日、緑から聞かされた押切忍との関係ばかりが頭から離れず翌日もずっとその事ばかりを考えていた。 しかし、自分自身ですらその沸き上がる感情がどういう名前のものかわからない。 透に対する感情とは全く別のものであるソレを昌弘はどう受け止めるべきかわからず持て余していたのだ。 そんな時に梶原に声をかけられ、常は出席しない飲み会へ家庭教師を嘘をついて休んで行った。 途中、何度かかかっていた着信を取る勇気もなく、ズルズルと無視してしまう。 『浅井緑』と着信の名を見る度に自分に好意を寄せていると言いながらも隠れて忍と関係を持っていた事実を思い出し目を背けた。 そんな自分の態度に己の弱さが垣間見えれば昌弘は逃げ出したくなっていた。 結果、その日を境に一週間休む事になり研究室へと無駄に通うこととなる。 『辞める』とも言わず、行くこともなく只々『大学が...』と嘘を吐き休むのは酷く幼稚だという事は昌弘とてわかっている。 しかし、動き出すことができなかったのは果たし 自分が離れたくないのが透なのかどうなのかわからなくなっていたからであった。 『まーくん...すきぃ』 明るい栗色の髪が脳裏をよぎる。 淫靡に響く甘い声が己以外にも向けられていたことにどうしようもない程の感情が込み上げてくるがその感情に名前をつけるのを躊躇った。 その感情に名前をつけてしまえば溢れてしまう感情をきっと昌弘は抑えられなくなりそうだと思ったからだ。 『逃げ』だろうが、『現実逃避』であろうが昌弘は続けて休むことでその感情から逃れたかったのである。 昌弘が深い思考に沈んでいれば「まーくん」とすぐそばで聞こえた。 少しでも気を抜けば名前の付けていない感情が吐露しそうで努めて冷静を装い声の方に振り向けば冷たく返事をする。 「....言いたいことがあるなら早く言ってくれ。俺も暇じゃないんだ」 緑の唇がギュッと一文字に結ばれ噛み締められる。 その姿に『いつでも飛び出せるぞ』と名も無い感情が顔を覗かせたのがわかった。
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