第二章

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 寛平二年(八九〇年)春、讃岐守の任期を終え、帰京したすぐあとに、大内裏の雅院で曲水の宴があった。宇多天皇側室義子の父である橘広相、藤原良房の養子の関白藤原基経、讃岐守の任期を終えたばかりで元文章博士の菅原道真、道真の岳父島田忠臣などの面々であった。  御世は宇多帝の治下、その日の一見穏やかな天気は、国情を象徴しているかのようだった。  道真はその宴にて、一句御製の詩を賜った。応じて、詠うに、  「風光を愛でる暇もなく讃岐の海浜に臥し伏していた  今素晴らしき日月を得たことを賛じて歌う  手前近くに臨む桂の宮雅殿の回流の水  遥かに想いを馳す唐の国蘭亭の晩景の春  御盃流れ来て水面の梅花乱れる  御簾巻き上げて青空の下弦顕れる  常に歌うは天皇の麗しき恩恵  久しく詩臣たらんことを願う」 杯を取って飲み干す道真に、天皇は言った。  「長年の讃岐赴任、御苦労だった。かの地の国情はどうだったか?」  「民は疲弊し、国政も廃れておりました」  天皇は、表情を曇らして道真の目を見た。  「地方の国政は乱れているということか?」  「畏れながら、我が微力がどこまで通用したかは、俄かには判断つきません」  宇多帝は、即位したばかりの若き理想を、爛爛と両眼に滾(たぎ)らせて言った。  「都からそう遠くは無い讃岐の地ですら、そのような状況ならば、全国の世情は、さぞかし芳しくないことであろう。どうにかせねばならないな。田公は赴任の際、美濃の国情はどうであったか?」  同席していた道真の岳父島田忠臣が、少し顔を歪めて言う。  「治安が良いとはいやしくも言えません」  「基経、何かいい知恵は無いものか?」  藤原基経は、表情を神妙にして、ぼそりと答えた。  「この場では、何も言えないです」  宇多天皇は、御眉をひそめて言った。  「今日の宴も、万民の生活苦の上に、成り立っているのだ……。臣等、ゆめゆめ疎かにすまいぞ」  道真は、若い天皇に、敬意を払って言った。  「全ては、神の血筋を引く天皇家による恩沢によります。神無くして民が暮らせましょうか」  「しかし、民あっての天下平安だ。民民には、不自由なく暮してもらわなければならぬ」  「仰る通りですね。もう少し、治世を改善せねばなりません」
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