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火夢繪(カムエ)には何もなかった。 ただ、背の高い檜の木一つが佇んでいた。 何故此処に来ようと思ったのだろう。 男には自分が分からなかった。 火夢繪には昔から誰も近付かない。 自分だってこれまで、下らない掟だと笑いつつも、破ろうとは思わなかった。掟を破ってまで近付こうとは思わなかったではないか。 それなのに何故、こんな死ぬ間際になってあの場所に行きたいと思うのだろう。 どうして行ったこともないのに懐かしいなどと思うのであろう。 男は一人歩いた。 何も無い火夢繪の地を、ただ一本の檜を目指して。 ふと足元に目をやった。 何もなかった筈の足元に、彼岸花を見た。だから火夢繪なのだと分かった。 男は笑った。声を出して笑った。 何もかもがどうでも良くなった。 取り敢えず進もうと思って進んだ。 相変わらず檜は遠い。 不思議と喉が乾かない。 いつもなら煩わしい日の光も、今日ばかりは心地良い。
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