第1章

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 これが現実。何も持たずにいるということ。でもぼくは下の下だから、寝られればよかったし、歌えればよかった。開いたギターケースにおざなりでたまに投げてもらえる小銭を集めてパンを買い、そのあまりの様子にホームレスに同情されてコンビニおにぎりを分けてもらったり、公園の木の下のわりにいい場所を寝床にもらったりしてぼくの日々は過ぎた。公園の水のみ場で水を飲み、顔を洗い、食べ物を胃に入れ、夜は路上で歌う。    東京に出て来てしばらく経った時、ふと気づいた。  そういえば、少し前まで鮮明に見えていた、存在しないはずの異形のものたちや人の思いの色をあまり感じなくなった。  なんだか目にフィールターがかかったように。  そのせいで東京の空や空気がねずみ色に見えるのか、それとも、ここの空はもとからそうだったのか。  いずれにせよ、敏感に感じ取っていたものが鈍くなるのは、ぼくにとっては好都合だった。  色々なことが他人事になって、自分から離れた場所で起こっている感じになって、ダイレクトに心に響かなくなる。  おかげでぼくは目の前のことに集中できた。ただ、歌えればそれでよかった。 駅前で歌っていると、時々酔っ払いにからまれたり、その筋の方々にいちゃもんをつけられ、追い立てられて逃げたりもした。  ぼくはなんとなくその新宿の南口が好きだったから、別な場所を転々としながらも頃合いを見てまたそこに戻っては歌い、また見つかって逃げ、へこたれずに戻って歌ううちに、その筋の方々が根負けして何も言わなくなったりした。ぼくがいっぱい儲けていたなら別だったのだろうけど、見るからに貧乏で小銭を稼ぐしかないぼくは、相手にするには労力がもったいないほどの、それなりの説得力があったんだと思う。  
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