42人が本棚に入れています
本棚に追加
弍
青森から上京したての頃、東京の革新的な景色に津軽は眩暈をも伴う高揚を感じていた。
今も眩さを感じることはあるが、殊に今朝見かけた相手の容貌は津軽の興味を強く引いた。まるで幻想小説から飛び出してきたような雰囲気は、そこが空蝉だなんてとても思えない。
朝早くに両手いっぱい荷物を抱え、どこへ行くつもりだったのか。自分と同じ書生だろうか。下宿先の寮へ帰る途中、そんなことを考える津軽はふと神楽坂の下で足を止めた。思い浮かぶのは坂の中腹にある貸本屋。
大きな書店ではないから有名作家の新作が置かれることはないものの、所狭しと並べられた膨大な冊数、店主が買い付ける面白い品揃えが好きだった。我慢出来ずに向かった店の戸を開けると、紙の匂いが津軽を心地よく興奮させる。
「いらっしゃい」
店主の声を聞き、津軽は懐から財布を出した。貸本屋では料金を支払うと、店内の本を自由に読み借りすることが出来る。自由に使えるお金の少ない書生としては有り難い制度だ。
(今日はどの本を借りて行こうか‥‥)
店内に他の客はいないと見え、津軽の短靴が立てる音は妙に大きく聞こえた。本の多さに感じる圧迫感と新書にはない独特な匂い。乾いた手触りと掠れたインクが趣深い。
「あっ‥‥」
何冊目かの気になった本を手にした時、無意識に声が零れた。抜き取った隙間から向こう側が見え、覚えのある眼が瞬く。すぐさま反対へ駆けると、木の踏み台に乗った幻想文学の登場人物が訝しげに津軽を見た。そして数秒の間が空き、記憶されていないことを自覚する。
「覚えていませんよね‥‥。今朝、道端で君とぶつかった書生の友人なんですけど」
詳細を聞いた相手はハッと肩を揺らし、踏み台を降りた。
「その節はすみませんでした」
「あ、いえいえ!謝って欲しくて声をかけたわけではないんです。ただ、その‥‥」
津軽は咄嗟に何も思い浮かばなかった。好奇心のままに声をかけてしまったが、ハッキリ言って用件はない。ぐるぐると脳内で悩む津軽の言葉を相手は黙って待っていた。
「な、名前を‥‥!」
「名前?」
「そう、君の名前が知りたくて」
これは少なからず本心であった。しかし、見知らぬ人間から突然名前を聞かれることの不審さに血の気が引いた。袴の位置からして女性ではないだろうが、津軽の立場が怪しいことに変わりはない。寧ろ同性に名前を聞かれる方が不審ではなかろうか。
「諒、です‥‥‥天谷諒」
躊躇いを残した口調がぽつりと呟いた。少女と呼ぶには低い。しかしながらくすみのない声は耳馴染みが良く、津軽の目元が綻ぶ。
「今朝見た時から君の雰囲気が気になって、それで‥‥。馬鹿にしているつもりはないんですけど」
「そうですか」
素っ気ない返答に津軽は拍子抜けした。偶然出会った相手に不釣り合いなことを言っている自覚はあるのに、諒の淡々とした表情は崩れず、とても不思議な感覚だ。
「俺のこと怪しいとは思わないんですね」
「通報されたいのならお望みどおりに」
「あ、い、いや‥‥すみません」
率直な言われようが津軽に刺さる。ただし返す言葉もない。言われずとも津軽自身が怪しい己の立場を分かっていた。
「すみません、意地の悪いことを言いました。冷やかしで声をかけられることが多いもので」
憂うその言葉に嫌味はなく、寧ろ納得した。この容貌なのだから声をかけられないはずがない。諒は煩わし気に横髪を耳にかけ、部屋の時計へ眼をやった。
「もういいですか?人に頼まれて本を借りに来ている所なんです」
「あ‥‥そう、ですよね。なら、もし都合がよければ明日にでも会えませんか?」
突然の誘いに諒の眼が瞬いた。この反応は断られるだろうなと覚悟したが、何とも言えない表情で悩む素振りをする。
「構いませんよ。何時頃に?」
「時間は‥‥同じ時間、明日この時間にここで」
「分かりました。では、また」
まるで逢引の約束を取り付ける会話を、津軽は続く高揚の中で交わした。小説を思わせる展開に貸本屋へ来た目的すら忘れてしまう程。翌日、津軽は授業が終わると同時に荷物を纏め始めた。今日程終業を待ち望んだことはない。大切なことをまた一つ失念していたのは恐らくその所為だ。
「津軽もう帰るつもりか?お前、今日締め切りの課題がまだだろ」
「えっ?‥‥‥あぁ!」
津軽は纏めたばかりの荷物から課題を探し出し、わなわなと手を震わせる。時計を見ると約束の時間まで三十分もなかった。
(あの子との約束が‥‥。でも、課題を出さないわけにはいかないし)
課題を片手に津軽は心の内で地団駄を踏む。せっかく相手と約束を取り付けたというのに、何故こんな時に限って別件があるのか。課題を後回しにした過去の自身を心底恨んだ。しかし、いくらそうしていても課題を投げ捨てるなんて出来るはずがない。
断腸の思いで席に座り直した津軽が課題を終えた時には、ガス燈に明かりが灯され始めていた。もう諒は待っていないだろうと確信に近いものがあったが、僅かな期待が津軽を走らせた。外套を小脇に抱え店が近付くと、明かりの消えた貸本屋の前に一つの影を見つける。薄明かりの中、鮮明になりゆくその影は津軽の存在に気付いたらしく、ゆっくりとこちらを向いた。数歩手前で足を止めた津軽は、荒い呼吸を繰り返した。そしてなんとか息を整え口を開く。
「ごめんなさい‥‥‥。待たせて」
津軽の謝罪に諒は首を横に振った。初めて会った時も今も、表情は無に近く怒っているのかどうかよく分からない。
「学校で外せない急用が出来て‥‥。こんなの言い訳にしかなりませんけど」
「いえ、時間を過ぎても待つと決めたのは僕ですから」
取り敢えず謝罪が出来たことに津軽は安堵した。しかし、こんな時間になってしまっては、相手をあまり長く引き止めるの申し訳ない。
「時間も遅いですし、約束は明日改めてということでも大丈夫ですか?」
「はい。いいですよ」
「なら、また明日‥‥昨日と同じ時間にここで。今度は絶対遅れて来ません」
やや強調して言いきれば、諒の口元が一瞬だけ微笑んで見えた。ガス灯だけが頼りの薄暗さに、会釈をして踵を返す諒の手を掴んでしまったのは咄嗟のことだ。振り返った諒は当然ながら不思議そうにする。
「え、っと‥‥い、家はどこですか?遅いですし送りますよ」
「横寺町ですのでお構いなく」
ここから近いという簡潔な理由でバッサリと切られ、津軽の強張った手が脱力した。諒の指先は容易くすり抜けてしまい、掴みきれない存在を歯痒く感じた。
「気を付けて帰ってください」
「はい。貴方も」
津軽はそれ以上踏み込む勇気を失い、坂を行く背中を見送った。咄嗟に掴んだ諒の手は、見た目こそ骨張った男の手だが、いざ触れてみればない温度が存在の脆さを増長させていた。まだ残るその余韻をどう表現するか、何と綴るか。帰路を行く一人の書生が文字を辿る。
最初のコメントを投稿しよう!