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陸
警察官と言えば、子供の頃から近寄りがたい印象が強かった。腰から下げられたサーベル(洋刀)の存在だけで萎縮してしまい、実際どうなのか津軽には分からないけれど、少なくとも話しかけるなんてことは出来ない。
況してや過去の事件の情報が欲しいなんて言える筈もなかった。
(そもそも一般人の俺には教えてくれないか)
せっかくの休日に浮かない顔で畳へ寝そべる。机上の原稿用紙は昨晩から一向に埋まる気配がなく、あれだけ湯気の立ち昇っていたお茶もぬるくなり、津軽の脳内は碧眼の少年が占めていた。
(鷹司‥‥‥。聞いたことあるような無いような?)
暫く過去の記憶を遡ってみるものの、そんな苗字を見聞きしたか明確には思い出せない。津軽は視界の端に映った新聞紙へ顔を向け、徐に起き上がる。下宿先を出て向かったのは帝国図書館だった。諒からすれば十一年前の事件は深く掘り下げないで欲しいことかもしれないが、好奇心に抗えない津軽の悪い癖がここでも発揮されてしまう。
貸本屋とは異なり、学校の書庫でもない。それらと似て非なる匂いを辿り、仕分けされた新聞の年代を人差し指でなぞった。
横濱毎日新聞、東京日日新聞、郵便報知新聞。
一八八七年の棚から引っ張り出した有名な日刊新聞はどれも日に焼けていた。隙間なく並んだ活字に視線を這わせ、ページをめくり、眼が眩む頃に捉えた鷹司という二文字の姓。
中流から上流階級の子息子女が拐かされる事例は多いけれど、歴史の深い家柄だけに見出しはなかなか大きい。どうやら鷹司家とは、鎌倉時代中期頃から続く家柄のようだ。当時の諒の情報は見出しに続いて載せられていた。
〝三月五日未明、華族鷹司家の少年が行方不明となった。下記の特徴に該当した少年の情報を求む。
名・鷹司 諒
年・五
背丈・三尺四寸(約103㎝)〟
津軽は記事の最後に掲載された写真を撫でた。髪型こそ今と違って両眼が見えているものの、紙に閉じ込められた少年は見紛うことなく諒だった。だのに、写真を見た瞬間に感じたのは違和感。言葉で表現しきれないそれは、歯に物がはさがって取れない感覚に似ていて、津軽には写真の諒が別人に見えた。
(考え過ぎかな‥‥?)
五歳の子供が十一年分も成長すれば容姿なんていくらでも変わる。分かってはいるのだ。諒が人の接触に過敏になってしまう気持ちも。誘拐に実母からの虐待、果てはあの容姿で周りから快くない扱いをされることだってあっただろう。
大学の書庫で別れた面持ちを思い出せば、津軽は帝国図書館を飛び出し諒の職場へ走っていた。寂寥を抱いたあの存在はあまりにも脆く、触れ方を間違えれば壊れてしまう気がした。やっとの思いで辿り着いた硯友社の硝子扉から中を伺うと一つの影が過る。扉を開ける勢いのまま引いた腕と、振り返る髪の隙間から覗いた碧眼に安堵を覚えた。諒は間違いなくここにいた。
「なに‥‥えっ、津軽?」
突然現れた相手に諒は眼を見張るばかり。腕を掴む手に力が籠り、津軽は深く息を吸った。
「ごめんって、言いたくて‥‥。無神経に昔のこと聞いたりとか、いつもいつも距離感おかしいとか、多分これからも直らないかもしれないけど‥‥‥あの、だから何が言いたいかっていうと、えっと‥‥」
元々纏まりのない謝罪で言葉を詰まらせ、視線が彷徨う。すると、それまでただ唖然とするだけだった諒が、堪えきれないように吹き出した。表通りを行く馬車鉄道の蹄の音が、軽やかに諒の笑い声を追いかける。
「態々そんなこと言いに来たのか?」
「え?だって、あの話の流れで昔の苗字聞くとか無神経にも程があるでしょ!他にもいろいろやってるけどさぁ!」
「僕は津軽が気にしないなら別に何でもいいよ」
「どういうこと?」
諒の言うことが分からなくて素直に意味を問うと、少しだけ居心地の悪そうな顔をされた。それは不快に思っている風ではなく、どちらかといえば羞恥心から躊躇っているような、そんな雰囲気。
「津軽、僕の右眼を見てどう思った?」
「どう?ラムネのビー玉みたいだなぁ、って」
「そんなこと言うのはお前ぐらいだよ。大体の人は混血児だとか言って後ろ指を差してくる。僕が思っていたのはそういうこと。見た目で冷やかされるのはずっと続くだろうし、一緒にいたらお前まであらぬ疑いがかけられるかもしれない。それで津軽が離れていったら嫌だなって‥‥‥。こんな恥ずかしいことわざわざ説明させるなよ」
やれやれとでも言いたげに息を吐き、諒は解放された手で首筋を摩る。津軽はそんな様子に笑みを浮かべた。諒が津軽を見誤っていたの同じく、津軽も諒を見誤っていたのだ。もしかしなくても、二人はお互いが思っている以上に相手から気に入られている。夕刻特有の静けさの中、二人を包む空気は何処までも柔らかかった。
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