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漆
「えっ、休み?」
冬のある日。硯友社を訪ねた津軽は、受付の事務員に想定外な事実を告げられた。男性曰く、津軽の訪人である諒は昨日から出社していない。なんでも担当の恭太郎が私用で東京を離れるので、数日は休みを貰っているとのこと。
(そういえば、仕事も自宅でしてる方が多いって言ってたな)
来た道を戻りながら津軽はぼんやりと思い出す。最近は街中で偶然出会うこともなくて、昼前に学校が終わったついでに空いている日を聞くつもりで来た。それが真逆の今日が休み。自宅は知っているのだから、少し遠いなんて怠けたことを言わずに最初からそっちへ向かっていればよかったと思う。初めて来た時はそれどころではなかったが、よく見ると諒の自宅は恭太郎の自宅の敷地内に建っていた。建物は各々で独立し、幾分か小さい方の玄関に天谷の表札が下げられている。雨戸はピッタリ閉ざされ、家主がいるか一抹の不安を覚えたけれど、手をかけた戸は津軽の不安とは裏腹に容易く動いた。
「諒ー?」
声を張って呼ぶも、津軽の声は薄暗い室内に消えていく。家主に無断は気が引けるが、諒の長靴はあるので上がらせてもらうことにした。僅かに軋む床を踏み、一つの部屋を覗いた津軽は驚きで半歩下がる。
床に散乱する原稿用紙と写真、走り書き、新聞紙の切り抜き。彼方此方に積まれた本は今にも雪崩を起こしそうで、羽織に包まった諒が文机の側に転がっている。まるで子供だと思った。普段なら後ろで束ねられた髪が畳に散り、腕まで放り出して。実際、諒は津軽より五つ下だからか、穏やかな寝息を立てる姿を見ていると郷里の妹を思い出す。
(こうしてると本当に女の子と区別がつかないな)
あどけないそれを眺めていれば、気配に気付いたらしい諒がむずがるように顔を顰めた。津軽は微睡むビー玉にどきりとした。
「‥‥つ、がる?」
「うん。おはよう」
「えっ、あ‥‥おはよ‥‥‥」
何故この男がここにいるのかと、混乱した様子で諒は上半身を起こす。辺りを見渡した視界の端に横髪が枝垂れ、なんとなく現状を理解したようだ。
「薺かと思った」
ぽつりと呟かれた名前に津軽は小首を傾げる。諒の口から人の名前を聞くのは、恭太郎を除くと初めてだった。
「なずなって誰?」
「僕の唯一の友人。今日少し寄ると言っていたんだけど‥‥。今、何時か分かる?」
「正午のドン(時を知らせる空砲)ならここへ来る途中に鳴ってたよ」
津軽がそう言った時、遠くで呼びかけが聞こえた。正確には何を言っているのかまでは分からないけれど、近付く足音に続いて戸が開けられ声が明瞭になる。
「あれ、先客?」
声の主は津軽の存在に音量を少しばかり下げた。黒髪と健康そうな肌色が真っ白なワイシャツによって際立ち、諒とは真逆をいく印象だった。
「悪い。友人が偶々来てくれていて」
「へぇー!諒に友人と呼べる相手がいたなんてな」
溌剌と笑った少年は二人の中間に腰を下ろした。歳は津軽と諒の間ぐらいだろうか。
「薺は僕の一つ上で小説家の卵」
「え!凄い、そうなんですか?!」
「いやいや‥‥。まだ先生の元で学ばせてもらっている最中ですから」
「それでも十分凄いですよ。何て名前で書かれてるんですか?」
「一応、薺で書いています」
「そうなんですね。本名で書かれてるのって珍しい‥‥あ、でも恭太郎さんも本名でしたっけ」
「確かに恭太郎さんは本名だけど、薺は違うよ」
訂正をした諒は口の端に微笑を滲ませてた。その意味が津軽には分からず、苦虫を噛み潰した薺の面持ちと交互に見比べる。どうやら二人にしか理解出来ない暗黙の何かがあるらしい。
「ねぇ、お聲ちゃん?」
「やめろ。叩くぞ」
諒の茶目っ気を含んだ声色に対し、瞬きの間もなく返される辛辣な言葉。津軽は納得の意を込めて笑いを洩らした。〝聲〟の読みは本来、女性に付けられることが多い読み方であるが故に、あまり好みではないといった所か。
「僕は薺の本名好きだけどな」
「えぇ‥‥諒みたいな名前の奴に言われても、なんかちょっと」
「それに前々から思っていたけど、薺だって結局は花の名前で可愛らしいことに変わりはないじゃないか」
「違う。薺は漢詩から取ったのであって花は関係ない」
「あぁ、平水韻の上声で薺ですか?」
二人の会話に口を挟むと、薺は正解とでも言いたげに表情を明るくさせた。
漢学塾に通う書生ならば容易に分かるのだが、漢詩は決められた句の末が同じ韻でなければならず、近体詩の場合に用いる平水韻は平声、上声、去声、入声の四つに大きく分類され、一〇六で構成される韻の内の一つが薺である。
「よく分かりましたね。諒は漢詩の話になると本当に疎くて」
「うるさいな。人は得手不得手があるんだよ‥‥って、そうだ漢詩で思い出した。恭太郎さんから薺に渡すようにって、預かってる物があったんだ。ちょっと待ってて」
諒が返事も待たずに部屋を出て行った途端、空間は沈黙で埋め尽くされた。何の躊躇いもなく言葉を交わしていたが、よくよく考えれば津軽と薺は初対面で、接点の諒を除けば赤の他人。視線を何処にやってよいのか分からず彷徨わせていると、似たような様子の薺と眼が合いどちらからともなく苦笑した。
「二人は仲が良いんですね」
「まぁ、友人なので‥‥。俺が上京してからの仲なんですけど、通っていた小学校の一学年下にいた奴と似ていたんですよ。それで声をかけてしまって」
「似ていたってことは全く違う人だったんですか?」
「はい。諒には暫く不審者扱いされていました」
頭を掻く薺につられ、津軽も笑ってしまった。警戒心剝き出しの諒は想像に容易くて、明らかに一線を引いた態度は記憶に新しい。
「あいつも昔はいろいろあったみたいで、友人を紹介される日がくるなんて思ってもいなかったです」
まるで父母が子供を想って語るような声は津軽の鼓膜を静かに揺らした。
「ありがとうございます」
その言葉には二人の仲を示す威力があった。まただ。二人の友情に羨みだけでなく、僅かな妬ましさを感じてしまう。恭太郎の時と一緒だった。圧倒的に違うのは諒と過ごして来た時間の長さで、もっと早く出会っていたらこんな風に自分も諒を語れたのかなんて、あまりにも滑稽なことを思ってしまう。
「諒の‥‥好きなものって何なんでしょう」
「好きなもの?」
「今日は遊びに誘うつもりで来たんです。ただ、諒が好きなものと言えば小説ぐらいしか知らなくて」
「成る程、そういうことですか。諒の好きなものは‥‥‥あいつ、結構子供らしいものが好きなんですよ。この前は上野の動物園に行ってみたいとか言っていましたし、甘味が好きで洋菓子なんかも喜びますね。あっ、でもそのくせ酒には滅法強いので飲み比べなんて間違ってもやったら駄目です」
「そんなに強いんですか?」
「それはもう。普段は付き合い程度でしか飲みませんが、電気ブランでさえあいつの前では水同然です」
「随分と仲が良さそうだな」
「っ‥‥!」
潜めた声で話す二人にそんな言葉が降ってきて、背後には怪しむ諒の姿。別段、悪事を働いていたわけでもないが、二人は笑って誤魔化すことにした。
「はい、薺。これ恭太郎さんから」
「ありがとう」
薺は手渡された包みを受け取り、何かを思いついたのか徐に腰を上げた。
「さて、そろそろ帰らないと怒られそうだからお暇しようかな。天気も良くて上野動物園に行くにはもってこいだけど」
「はぁ?この前、動物は得意じゃないって言って断ったのは薺だろ」
怪訝そうに眉を寄せる諒を無視して、薺は意味ありげにはにかむ。こちらへ向けられた視線や先程の言葉の意味に気付き、津軽はハッとした。
「諒、この後って予定ある?」
「え?いや‥‥別に、特には」
前触れのないそれに諒はたどたどしく答えた。上野動物園に行きたがっていたのも本当らしく、名前を出せば二つ返事で頷かれた。
明治一五年に上野公園に開かれた博物館の附属施設といった名目ではあるが、開園同年の九月には日本初の水族館が公開され、五年後に伊太利亜のチャリネ(サーカス)曲馬団よりヒグマと交換で虎が来園。
翌年は清国から四不像が、シャム皇帝からアジアゾウが贈られた。近年では園内に洋燈が増え始め、開園から十年以上経った今でも当初の賑わいは衰えていなかった。
「津軽今の見たか?!虎の牙は随分鋭いな‥‥!昔読んだ本の挿絵とそっくりだ!」
檻の前で今までに無くはしゃぐ諒を見て、津軽はただただ吃驚の一言に尽きる。誘った側としては嬉しいのだが、あまりにも意外な反応なので唖然としてしまった。
「あっち!津軽、あっち見て‥‥!」
「はいはい。そんなに慌てなくても動物は逃げないよ」
興奮した諒に津軽は破顔し、腕を引かれるままに足を運ぶ。連れ回されることも、動物を愛でる横顔も微笑ましくてならなかった。
しかしそう感じると同時に、それが実の親と築けなかった過去からくる反動だと思うと、やるせなさが針となって心を突く。
どうしたらこの笑顔を気付つけることが出来るのか。どうしたら手放そうと思えるのか。津軽には到底理解出来るものではない。
「薺のことだけどさ‥‥。ああ言ってるけど、薺も本名をまるっきり嫌っているわけじゃないんだ」
柵に体重を傾け諒は、少しばかり神妙な面持ちで話し始めた。突然ではあったが、自宅で薺とした会話の続きだとすぐに分かった。
「同じ一字名にしたのも、画数が同じなのもそうだし、薺を音読みしたら本名と同じだから」
「そうなんだ。流石、よく分かってる」
「四、五年の付き合いだからね。最初は小学校にいた後輩と似てるとか言って声をかけてきて‥‥。よく考えたら、薺といい津軽といい、僕の友人はまともな出会い方をしていないな」
「失礼だなぁ。薺さんのだって諒が忘れてるだけなんじゃないの?」
「僕はこっちの小学校に通っていたからありえないね。まぁ、記憶に関しては正直何とも言えないけど。如何せん誘拐された以前の記憶がないもので」
躊躇いもなく発された事実は、明らかに物言いと反比例していた。微風が辺りの木々を鳴らし、津軽はすぐに言葉を思いつかず無言で隣に顔を向ける。柵に凭れたまま小首が傾げられ、さらりと流れた前髪の隙間から碧が覗いた。
「津軽、十一年前の事件について調べただろ」
「う、うん」
「なら知ってるだろうけど、僕は五歳で誘拐されて空白の期間は丸一年。合計でたった六年分の記憶だよ。津軽は自分が六歳の頃をハッキリ覚えている?」
「それは‥‥。ハッキリとは、覚えてないかもしれない」
「ほら見ろ、驚くことでもないじゃないか。僕の場合は誘拐の精神的負担で記憶が曖昧なんだろうと言われてね。基本的な記憶は親から伝えられた情報なんだ」
いつもより饒舌な諒が軽い笑い声を転がす。記憶とは実に脆いもので、十一年前は愚か、上京する前まで共に住んでいた両親の顔さえ今や朧げだ。本人を前にして見分けはつくが、細部に至るまで語れと言われたら自信がない。ならば眼の前にいる少年と己は如何程の差異があるのか。
「だから失われた僕の記憶なんてどうでもいいんだ。それより津軽の話を聞かせてよ。津軽の好きなものは何だろう?」
聞き覚えのあるフレーズに津軽は動きを止めた。そして理解が追いつくと気恥ずかしさから顔に熱が集まる。
「聞いてたんだ‥‥。薺さんとの会話」
「聞こえただけだよ」
悪戯っ子のように笑い声を忍ばせ、揺れる髪から見え隠れする碧。対比した夕日の織り成す色彩が二人を染めていた。
「また近いうちにね。追々話す」
〝また〟なんて短い言葉が二人の耳には酷く甘かった。次があることへの喜びとこそばゆさ。熱い頬を襟巻で隠し、寒空には白い息が二つ昇った。
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