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鷺澤恭太郎。 それは言わずと知れた人気小説家だ。若くして巷に名を轟かせ、あらゆる名誉を手中にしてきた彼は、柔和な物腰に対しあまり群れることをしない。孤高の小説家とまで言われた為、数年前に助手を雇った時は少しばかり話題になった。一回り年若な、混血児のような少年であったことも原因の一つだろう。 「恭太郎さん」 呼ばれた名前に感じる気配。振り返った先では、左右で色の違う眼が恭太郎を見上げていた。以前は気味悪がられるのを恐れ、碧色の右眼は伸ばした前髪で隠していた。 それが今では眉の辺りで切り揃えられ、変わり映えのない表情も随分と柔かくなった気がする。 「表で(*16)夫さんが待っていますよ」 「あぁ、悪いね。少し寝過ごしてしまって」 恭太郎はまだ身支度の出来ていない現状に言い訳をしながら、羽織へ手を伸ばした。あれだけ頻りに隠したがっていた右眼は未だに見慣れなくて、髪を切った状態で帰宅した諒との昨日の会話を思い浮かべる。 『諒?その、髪‥‥』 『やっぱり眼につきますか?津軽にはこっちの方がいいと言われたんですけど』 微笑する目元は何処か晴れやかで、それ以上は何も言えなかった。津軽という書生ともいつの間にそこまで親しくなったのか。知り合いの認識はしていたものの、先日一緒に上野動物園へ行ったと聞いたのだって後になってからで、進展の速度に恭太郎は驚きを隠せない。 (子供が親離れする時はこんな感じなのか‥‥) 諒との間にはそれなりの信頼関係があると思っていただけに、何も知らされなかった恭太郎は物寂しさを感じずにはいられなかった。そもそも助手で諒を雇う話を持ちかけてきたのは同じ小説家で、相手は何人も弟子を抱える男だった。 本来、小説の清書や雑務は弟子に任せるものなのだが、弟子を抱えたがらない恭太郎の性分を知っていたその男は、自分の弟子の友人を助手として連れて来た。元は華族で英語や社交界のマナーまで堪能という少年。最初はあまりに幼くないかと心配もした。 しかし実際には、恭太郎の方が諒を手放せなくなっている。 (とはいえ、諒もいずれは別の職に就きたいと言うかもしれないし) 不確かな未来を危惧しても仕方がないのは分かっているけれど、確実に困るのは恭太郎の方だ。それに今や身内同然の扱いをする諒が別の職場に移り、容姿の所為で冷遇を受けたとしたら黙っていられる自信がない。 「恭太郎さん!」 また上の空に近かった恭太郎を呼ぶ人物は無論一人しかおらず、諒は身支度の遅さに痺れを切らして部屋まで戻って来た。 「何で今朝はそんなにのんびりなんですか?早くしないと取材の時間に間に合いませんよ!その後は研友社で倉岡先生との打ち合わせもあるんですからお忘れなく」 諒は早口で捲し立てながら恭太郎を急かし、俥へと押し込む。念の為に言うと毎朝がこんな風なわけではない。今朝は異例中の異例だ。漸く走り出した俥に諒は息を吐き、そのまま研友社へと向かった。今日は打ち合わせの時間まで恭太郎と別行動である。正午のドン(時間を知らせる空砲)が鳴る頃、社の外で止まった俥の音に気が付いた。窓から下を覗くと、俥から下り建物へと向かって来る一人の男性。恭太郎の小説を題材に、屏風絵を描きたいと言う画家が打ち合わせに来る予定で、恐らく男性がその画家だろう。 (予定の時間より少し早いな) 壁にかけられた時計で時間を確認し、諒は部屋を出た。階段を下りた先では男性がちょうど受付の事務員と話をしていた。 「倉岡先生」 名前を呼ぶと、窓口から顔を上げた男性の目元が僅かに緩む。 「申し訳ありません。只今鷺澤は別件で席を外しておりますので、少々お待ちいただいてもよろしいでしょうか?」 「構いませんよ。実のところを言うと、貴方と話をしたくて少し早く来ましたから」 「え‥‥?」 想定もしていなかった理由は否が応でも諒の思考を鈍らせた。いつもより視線が強い気がして、そういえばと隠すことをやめた碧眼を思い出す。 「貴方の名前を聞いてもいいですか?」 「あ、はい‥‥。天谷、諒です」 諒はわけが分からないまま、しかし応えないわけにもいかず困惑の中で名前を口にした。この画家とは恭太郎の付き添いで何度か顔を合わせてはいるが、今までこんな質問をされたことは一度だってない。直接言葉を交わした回数すら片手で数え切れる。 「そんなに固くならないでください。何も取って食いやしません。鷺澤先生が重宝する助手がどんな人間なのか気になっただけで‥‥‥」 「倉岡先生?」 聞きなれた声が現れ、恭太郎の姿を見た諒は無意識に緊張の糸を解いた。だが恭太郎は倉岡の向かいにいた諒を見て少しばかり瞠目する。それもほんの一瞬のことで、すぐに社交辞令じみた笑みで繕われてしまったが。 「もうお着きでしたか。約束の時間よりも早く来たつもりなのですが、お待たせしてしまったようで申し訳ない」 「そんな‥‥。たった今着いた所ですから」 小説家と画家。向かい合った双方は笑っている筈なのに、傍から見て到底穏やかには感じられない。愛想のよい笑みの下で何か良からぬ影が渦巻いている。終いには打ち合わせの最後に、二人で話がしたいと言う恭太郎らに部屋を追い出されてしまった。双方いい大人なのでないとは思うが、言い争いでも始まりやしないかとヒヤヒヤした。 (いつまで話すつもりなんだろ) どれ程の時間が経ったか。昼下がりの陽気に欠伸を噛み殺していると、部屋の扉が静かに開いた。どうやら話は終わったらしい。 「長居をしてしまって申し訳ありません」 「こちらこそ時間も忘れて話し込んでしまって。そこまでお送りしましょう」 「いえ、お気遣いなく‥‥。君もまたどこかで」 倉岡は手短な挨拶を添え、諒の頭へ手を伸ばした。それには反射的に肩がビクつき、足が半歩引く。図らずも恭太郎に寄る様子を見た倉岡は、やや残念そうに微笑し会釈を最後に踵を返した。 「倉岡先生、僕のこと女性だとでも思っているんですかね」 伸ばされた手は恐らく頭を撫でようとしたもの。女性や年を幾つか下に見られることはよくあって、女子供に接する行動が出てしまったのだと思った。 「流石にそれはないでしょう。国外の人間ならまだしも、日本人なら袴の高さで分かるから」 「そうですよね」 あっさりと頷いた諒に恭太郎は安堵した。しかし同時に、倉岡が諒を女性だと勘違いしている方がどれ程マシだったかとも思う。 (あくまで一人の絵描きとして気に入っているだけか?) 机上に置かれていた湯呑をお盆に移し、部屋から出てきた諒を無意識に見つめる。その視線に気が付いたらしい眼が、意味を問うように数回瞬いた。 「どうされました?」 「ん?いや、なんでも」 「ならいいですけど、今日は朝から変ですよ」 「そんなことは‥‥‥。諒、倉岡先生の作品を見たことはあるかい?」 「まぁ、一度だけなら」 「どう思った?」 「どう?‥‥‥素人眼でも拙い作品でないことは分かりました。人々が魅了されるのも頷けます。けれど、僕は美術的な目利きは得意ではないのでそれぐらいです」 「成る程、僕も同意見だ。物書きに分かることなんてそれぐらいで、美術学校に通う書生の方がもっと多くの点に気付くんだろうと思っていたよ」 「思っていたって、過去形なんですね」 「あぁ、倉岡先生と話をするうちに分かったんだ」 画家が使用する(*17)絵具は配合や重ね具合で色合いが変わり、その画家特有の色が浮かび上がる。思えば、倉岡という画家がここ数年に製作した作品と、過去の作品を見比べた時、心に引っ掛かりを感じた。近年は過去の作風と打って変わって何処か霧のかかった脆さを纏い、頻繁に使用されるようになった碧色。 何処かで見た色だと思ってはいたが、まさかそんな馬鹿げた話はないだろうと決めつけていた。恭太郎は手を持ち上げ、人差し指で短くなった前髪を掬う。盲目の碧眼にはただ恭太郎の顔が映っていた。 「お前にはこの意味が分からないだろうなぁ」 作風が変わる程に一人の画家を惚れさせておいて、本人は欠片も気付いていない罪深さ。 「分かりませんよ」 諒はふいっと手を退け一言。触れられることを拒まれなかったのは恭太郎に対する信頼か敬意か。長靴(ブーツ)の底と床とがぶつかる音が徐々に離れ、恭太郎は一人取り残されてしまった。長らく嫌悪に晒されすぎてしまった彼は、第三者からの好意に人一倍疎い。現状がそれ故だとしても、やはり人一人を魅了した罪は認めてほしいと思う。
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