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壱
十年後
一八九八年(明治三一年)
まだ日も昇りきっていない東京の道をザンバラ髪が横切った。外套を纏う青年の口からは白い息が吐き出される。雪こそ降っていないけれど、外気の冷たさに眠気も相まって意識は薄らぼんやりとしていた。おかげで背後から近付く足音にも気が付けない。
「つーがる」
跳ねるような音調と共に肩を叩かれ、漸く意識が浮上した。振り返った先の同じ外套を着た青年は無論赤の他人などではなく学友だ。
「おはよう」
「おはよう。今朝も随分と冷えるな」
「本当だよ。ついこの間まではここまで寒くなかったのに、今じゃあこれ無しでは外を歩ける自信がない」
青年は大袈裟に腕を広げ外套を表した。ここは道幅のある大通りでも何でもなく、横に伸びた腕がすれ違いざまに相手の進路を妨げたのは当然だろう。驚いた相手の声と、その腕に抱えられた物が雪崩れたのはほぼ同時だった。
「す、すみません!」
「いえ、こちらこそ」
青年は不注意を慌てて詫び、地面に落ちた物を搔き集めた。津軽も近くにある物から順に手を伸ばし、最後に兎の根付けを拾う。
「これも君の物ですか?」
「あぁ、はい。ありがとうございます」
屈んでいた相手が顔を上げ思わず瞠目した。総髪に右眼を隠す前髪。性別が曖昧に感じるのはその髪型故か、それとも容姿故か。どちらにせよ、一瞬息をするのも忘れる引力は桁外れだった。頭を下げ立ち去る相手の翻った袴に、津軽は夢心地と似て非なる浮遊感を感じた。歩き始めた友人の後を追っても、先程の人物が気になって仕方がない。そんな津軽を他所に青年は心底楽しそうに口を開いた。
「今の子どう思う?」
「え?」
「だから今ぶつかった子。なかなか綺麗だと思わないか?あの容姿ならきっと混血児だろうな」
「あぁ‥‥そう言うこと」
「他に何があるって言うんだよ」
「いや、別に。そもそもあの子が女性だったかは怪しいけど」
「えっ?!まさか‥‥」
「実際の所はどうか分からないけどさ。そこまで見ていなかったし」
絶句する青年に津軽は適当な返事をした。正直、今ぶつかった人間が女性であろうとなかろうと、津軽にはあまり興味がない。美しいものは美しい。ただそれだけだ。
(あの子を文字で表すなら、なんと綴るのが似合うだろう)
興味のあるものを見れば、それをどう文字で表現するか、なんと綴れば人に伝わるか考えてしまう。趣味で小説を書き始めるより前からの癖だった。
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