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終業の鐘が鳴るや否や、校舎を飛び出す津軽を引き止めるものはもういなかった。外套の裾を風に乗せ、規則的に白い息が後方へ流れる。目的地の貸本屋へ着くと、呼吸を整えながら店内を覗いた。中には隅に置かれた椅子で本を開く諒の姿。まるで小説の一場面のように、彼の挙動はとても絵になる。 「鷺澤(さぎさわ)先生の作品ですね」 余程集中していたと見え、津軽が声をかけるまで諒は顔を上げなかった。引いた椅子の背もたれに外套をかけると、閉ざした本が机上に据えられる。鷺澤先生とは、(ちまた)では誰もが知る有名小説家の鷺澤恭太郎(さぎさわきょうたろう)のことだった。 「僕には敬語でなくていいですよ。鹿目さんの方が年上ですから」 「そう……って、あれ?俺、君に名前教えたっけ?」 「ここのご主人に伺いました。たまに本を借りに来る(*9)松(二松學舎大学)の書生だと」 教えた覚えのないそれに一瞬は驚いたが、聞いてしまえばなんてことない理由だった。突然声をかけられ、あの男は誰だと第三者に尋ねる諒の行動は決しておかしくない。 「天谷さんも書生?」 「いえ、書生ではなくて‥‥助手みたいなものです。ある方の手伝いをさせていただいています」 「へぇー意外だなぁ」 「意外ですか?」 「何と言うか、育ちが良さそうに見えたから」 それは落ち着いた所作を前にすると余計に。良家という単語がよく似合って、進学しているのだとばかり思っていた。諒は津軽の発言を聞いて、何故だか驚きにも似た狼狽(ろうばい)をにわかに見せた。その反応が気になり視線を注いだ先で、前髪のかからない片眼が僅かに伏す。 林檎の実を思わせる白い肌と、そこに影を落とした睫毛、色素の薄い猫っ毛。華美ではないけれど、眼を逸らせない異質さがあった。哀愁を抱いた存在に津軽が手を伸ばしたのは、それこそ昔からの悪い癖である。 「何で前髪で右眼隠してるの?」 素朴な疑問を乗せた声に、手の弾かれる音が重なる。瞠目した津軽は痺れる手を宙に浮かせた。 「‥‥すみません」 消え入りそうな諒の謝罪を駆け足が追った。引き留める言葉は思いつかず、机上に忘れられた小説が津軽を静かに責め立てる。去り際の、今にも泣き出しそうな諒の眼が脳裏にこべりついていた。 その日以来、津軽が神楽坂の貸本屋を何度訪ねても、諒が現れることはなかった。住まいは横寺町だと言っていたけれど、それだけではあまりに範囲が広く自宅を探し当てるなんて出来るはずもない。 (取り敢えずこの小説だけでも返したいけど‥‥) 学校からの帰り、道を歩く最中にそんなことを考える。小脇には例の日に忘れられた小説を、(*10)紙で包みいつも抱えていた。諒の特徴と言えば、右眼を隠す前髪に少女じみた容姿。装いに関しては詰襟シャツに長着、袴という大して珍しくないものであった為、こうしている今も見落としている可能性がある。 しかし、行き交う人の中に存在を見つけた時は、周りに紛れるなんて到底ありえないと思った。やはり彼は小説の一場面なのだ。 「天谷さん!」 咄嗟に叫んだ名前は雑踏を抜け、鈍色(にびいろ)の髪を振り向かせた。 「あっ、ちょっと待って!」 顔を見るなり(きびす)を返した諒は細道へと逃げる。津軽も慌てて走り出し、垣根で仕切られた民間の並びを見渡すと、駆ける袴の裾が一つの門に飛び込んだ。家の中に入られてしまえば無理に踏み込むことは出来ない。まだ出会って三度目の対面で不躾とは思いつつも、津軽は今にも閉められそうな戸を強引に押せえつけた。 「待って、少しだけ‥‥!少しだけ話させて!!」 「帰ってください!怒りますよ?!」 「怒ってもいいから!俺は小説を返しに来ただけなんだって!」 「なら郵便受けにでも入れて置いたらいいでしょう!この手を離してください!!」 お互い一歩も譲らない攻防戦を繰り広げていれば、津軽の背後で地面の擦れる音が止まった。 「君たち、元気なのはいいが玄関先で喧嘩はよしなさい」 頭上から降った声に双方が身を固め、声の主を見上げる。そこには呆れ顔の男性が一人立っていた。諒の父親にしては年若く、年齢の離れた兄弟だろうか。男性は津軽の頭の先から爪先までを視線でなぞった。 「その外套は二松の書生だね。うちの天谷が何か粗相でも?」 「えっと、そういうわけではなくて‥‥‥あっ、小説を!前会った時に天谷さんが小説を忘れて行ったので届けに‥‥ね?!」 間違っていないだろうと同意を求めて諒に顔を向ければ、苦々しい面持ちをしながらもぎこちなく頷いた。少なからずそれも自身を追いかけてきた理由なのだと、薄々分かっていたのだ。 「なるほど。何やら込み入った理由がありそうだが、諒に言い争いの出来る友人がいてくれてよかったよ」 「べ、別にこの人は友人では‥‥!」 「うちのが世話になったようだし、これから三人で食事でもどうだい?」 諒の否定する言葉は耳に届いていないのか、はたまた故意か。男性は津軽に向かってにこやかに問いかける。対照的に顔を蒼白とさせた諒は、断れと言わんばかりに首を横に振っていた。津軽も流石に返答を躊躇ったが、この機会を逃せば諒と二度と会えなくなるかもしれない。つまりここは諒にどう思われようが誘いに乗るのが最善。 「では、お言葉に甘えて」 「よし。そうと決まれば早速行こう」 津軽の返答を聞き、男性は機嫌良く歩き出した。愕然(がくぜん)とする諒を横目に後ろをついて行けば、外套の裾を軽く引かれる。 「何か僕に恨みでもあるんですか?」 頭一つ分下から睨みつけられ、前を歩く男性に聞こえないような小声が問うた。確かに諒の立場からしたらそう感じるのかもしれないが、津軽の根本は初めて会った時から変わらない。 「ここで誘いを断ったら、もう君と会う口実がなくなっちゃうでしょ?」 津軽は歩みを止めないまま、同じ声量で返した。そんなことを言われるとは思っていなかったらしい諒は、理解に苦しい様子で外套を摘まむ手を離す。 「ごめん。あの時、急に踏み入ったこと聞いて」 続けて詫びたあの日の出来事にも、諒は少しだけ驚いた顔をした。 「気になることがあると距離感が分からなくなるんだ。鈍感だって友人にも言われるし、あれ以外にも不快な思いをさせてしまったかもしれないから謝るよ」 素直に謝罪された諒は、ばつが悪そうに黙ってしまった。そして観念とも取れる溜息を吐く。 「僕もすみませんでした。元々怒っていたわけでもないんですけど、友人が少ないものでこういった時はどうすればいいのか分からなくて‥‥」 「じゃあ、俺が友人になるってのはあり?」 期待を含んだ声に、諒は間もなくして小さく吹き出した。 「いいですね。あなたみたいな人、嫌いではないかもしれません」 クスクスと笑いを刻む様子は存外年相応で、眼を惹かれた。もしや感情の波がないのかとさえ思っていたけれど、傷心も、焦りも、笑う(かんばせ)も持つありふれた少年だ。 「天谷さんのお兄さんに誘われた時はどうしようかと思ったけど、やっぱり誘いに乗っておいてよかった」 「いや‥‥。あの人は僕の兄ではないですよ」 「あれ、違うの?親にしては年齢が近そうだから、兄弟なんだとばかり」 「血縁があるほど似ていないでしょう。あの人の助手をさせてもらっているから‥‥直属の上司って所ですかね。鷺澤恭太郎さんです」 その名前に津軽は思考が停止した。前を歩く足が止まり、連動した津軽たちを男性が振り返る。友人の中でも背丈のある津軽より更に高いその肢体(したい)。見た目の若さにそぐわない堂々たる存在感と、落ち着いた表情を見て妙に納得してしまった。 「着いたよ。さぁ、入りなさい」 店の扉を引かれ、数十分前では到底想像の出来ない展開に鼓動が速まっていた。洋館を前にした高揚も相まって心臓が痛い。外観も店内に漂う香りも、どれを取っても非日常。あの有名小説家、鷺澤恭太郎と同じテーブルでクロケットを食べる日が来るなんて、青森から上京した頃の津軽に想像が出来ただろうか。 「君は反応が素直だね」 初めての料理を頬張る最中、恭太郎に指摘をされた津軽はグッと喉を詰まらせた。慌てて口内のそれを飲み込み、恐る恐る相手の様子を伺う。 「顔に出てますか?」 「クロケット(*11)が美味いと書いてある」 「や、でも‥‥本当に美味しいです。日本風の物ならまだしも、仏蘭西のクロケットなんてなかなか食べられる料理ではありませんし」 「そう言ってくれると僕も連れてきた甲斐があったよ。諒はあまり手放しで喜んだりしないからなぁ」 「僕も美味しいと思ってますよ?」 「お前はシチューでも牛鍋でも同じ反応じゃないか」 やれやれと肩を(すく)める恭太郎だが、決して疎ましく思っている風でない物言いに二人の親密さを感じた。聞き齧っただけのぎこちない動作でナイフとフォークを使う津軽に対し、容易くそれらを使いこなす諒はこの空間によく馴染む。十代も半ばの少年にしては些か不釣り合いなぐらい。 「そんなに見ないでください」 「え?あ、ごめん」 どうやら手元を注視していたらしく、津軽は咄嗟に謝罪を口にした。 「随分、その‥‥場慣れしてるなって」 「幼少期に教え込まれましたからね。一応、元華族なんです」 怒っているのか、何なのか。 感情の読めない声で発されたそれは、成る程と津軽を満足させた。落ち着いた所作も大人びた言動も、恐らく性格 云々(うんぬん)の前に教育として与えられたもの。しかし、それ以上は追求を拒否しているようで、津軽はこの時どんな反応をしたのか覚えていない。 「鷺澤先生、ご馳走様でした」 店を出た所で恭太郎を振り返ると、人の良さそうな笑みが小さく頷く。 「僕も楽しかったよ」 懐中時計を出す仕草に空を見上げると、随分と時間が経っていることに気が付いた。季節のこともあって、ガス灯には明かりが灯り始めている。 「僕は少し人と約束があるから、諒は先に帰っていなさい」 「かしこまりました。明後日の件ですが、出版社の方が一度顔を出してほしいと仰っていましたので‥‥‥」 恭太郎と諒が交わす会話を聞くともなしに、津軽は拭えない羨みを抱えた。まだ諒とは出会って数日で、津軽に対して他人行儀なのは当然だが、そこに寂しさを感じてしまうのはいけないことだろうか。敬意を払いながらも、確かな信頼を置いた二人の間柄が羨ましくて仕方がない。 「鹿目さん?」 「‥‥!」 名前を呼ばれ、津軽は僅かに肩を跳ねさせた。こちらを見るのは諒だけで、先程までそこにいた筈の恭太郎は既に人混みに紛れていた。 「恭太郎さんは別件があるそうなので僕はもう帰宅しますが、鹿目さんはどうされますか?」 「なら、俺も‥‥。同じ方面だから一緒に行こうか」 頷いた諒と肩を並べ、いつもよりゆっくりとした歩調が歩き出す。何を話すべきかと悩む中でも、津軽は恭太郎と諒のやり取りを忘れられなかった。 「あのさ‥‥」 「はい?」 声をかければ返事がくる。けれど、津軽が欲しいのはそれではない。それだけでは満足出来なくて、満たされない感情が津軽を急かした。 「もしよかったら、敬語止めてもらってもいいかな?」 「えっ‥‥僕の方が年下ですよ?」 「それは分かってるけど、君に敬語を使われると、他人だからって突き放されてるみたいで嫌なんだ。出来れば呼び方も苗字じゃなくて、下の名前を呼び捨てて欲しい」 「‥‥‥。」 呆気に取られてか、諒は直ぐに反応を露わにしなかった。地面と靴の擦れる音が嫌に大きく、津軽の不安を駆り立てる。やはり言わなければよかったと。また見誤った距離感に焦りさえ覚えた。 「鹿目さんって考えるより先に動いちゃう人間ですよね」 「そうかもしれない‥‥。ごめん、直そう直そうって思ってはいるんだけど、今日だってそのことを謝ったばかりなのに」 耳に痛い正論を受け、津軽は耳目を塞ぎたくなった。けれど、隣からは可笑しそうな微笑が聞こえる。 「直さなくてもいいんじゃない?津軽みたいな人、案外嫌いじゃないって言っただろ」 ガス灯に照らされ、花の綻ぶ宵の口。 二十一の時を重ね、初めて味わったこの感覚の名を津軽はまだ知らずにいる。諒と別れた後、夜も更けた机上で甘い残響が綴られた。
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