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肆
空から落ちる雪を眺めるのが好きだった幼少期の記憶。雪の日はいつも決まって二階の奥まった窓際にいたとか。何時間も、何回も、飽くことなく眺めていると、これも決まって母が手招きをする。暖炉の薪が燃える匂いに柔らかな絨毯。蜂蜜を溶かした温かい牛乳とビスケットを一緒に食べるのが好きだったらしい。
『美味しい?』
テーブルの向かいに座る母はそう小首を傾げる。
『うん』
諒が嘘を吐いたことはなかった。けれど、母はその返事を聞いては顔を曇らせる。最初に手を上げられたのは確か淡雪の綺麗な日だった。子供らしからぬ、淡々とした言動が気に入らなかったのか。後にお喋りな周囲から聞かされた話によると、病弱だった母は出産すると同時に我が子を見る間も無く診療所へ移され、入退院を繰り返していた。故に天真爛漫な、文字に書いたような子供像を抱えてしまったのだろう。
『どうして笑わないの?どうして表情を変えないの?』
まるで譫言のように繰り返す母を、諒は痛みを感じながら見上げることしか出来なかった。頬を叩かれようと、髪を掴まれようと、首を締められようと、涙一つ零さない息子はさぞかし怖かったであろう。
『ほら、痛いって言って!嫌だって泣いてごらん?!』
癇癪が激しくなる中、泣き叫ぶのは諒ではなく母の方だった。痛いと、嫌だと、叫んでいるはずなのにそれは声にならなくて、泣きたいのに涙の流し方が分からなくなるばかり。小学校を卒業すると同時に、事態を見かねた父によって養子へと出されたが、今も時折魘されることがある。
「天谷くん、天谷くん!」
「‥‥っ!」
激しい揺さぶりを受け、漸く諒は眼を覚ました。慌てて身を起こすと、霞む視界に白髪混じりの中年男性が映る。見渡した部屋が見慣れた出版社の一室であることに気が付き、詰まった息が溢れた。
「大丈夫かい?」
「はい‥‥。すみません」
それは何に対する謝罪だったのか、諒本人にもよく分からない。ただ、未だ脳裏から離れない幻影に頭痛がした。薄らと汗ばむ額に手を当て、軽く前髪を払った先で机上の原稿用紙を見る。そういえば、この男性に頼まれた清書をしていたのだった。
「これ、頼まれていた清書です。終わりました」
「えっ、もう?」
男性は驚きを見せた後、受け取った原稿用紙を指先でめくる。無言の頷きは目立った不備がないということ。
「助かったよ。ありがとう」
「いえ、お役に立てたようでよかったです」
「君はそう言ってくれるけど、助手の子を勝手に使ったなんて鷺澤先生に知られたら怒られてしまうな」
「皆さんが忙しいことは恭太郎さんもご存知ですから、きっと大丈夫ですよ」
「君だって十分忙しいだろ?」
男性は原稿用紙の束を封筒に入れ、心配そうに眉を下げる。
「随分と魘されていたけど、大丈夫かい?」
諒は机上の針先泉筆(万年筆)を片付け、男性の問いかけに考えを巡らせた。魘されていた原因を話すには随分と長い過程を語らなければならないし、過ぎたことを掘り返すなんてことを好んではいない。つまりここは濁すが定石。
「大丈夫です。大した問題では‥‥‥ん、これは?」
誤魔化しを言いかけた諒は、床に落ちた布に声を上げた。汚れを払い、拾い上げたそれは大振りの外套だ。
「あぁ、それなら寝てる天谷くんに書生さんがかけていった物だよ」
「書生‥‥と、言いますと?」
「さぁ、それが何処の誰だかは分からないけど、出版社に用があって来るぐらいだから、その道の子じゃないかな」
男性の曖昧な認識は諒を更に悩ませた。しかし、外套の胸元に付いた留め具を見て一人の人物が思い浮かぶ。雪柳を閉じ込めたような、白濁を抱く透明が黒の外套で際立っていた。
「その書生さんって背丈は高かったですか?」
「あぁ、確かに高かった。六尺(約180㎝)近くあっただろうね」
「そうですか。ありがとうございます」
諒は自身の羽織に腕を通すと、外套を小脇に外へと足を向けた。
「あ、ちょっと待って」
そんな声に振り返れば、男性は諒の手に小さな紙包みを握らせる。そっと拳を開くと硬貨の擦れる音がした。
「少ないけど清書のお礼。何か買ったらいいよ」
「えっ、いや‥‥そんなの悪いです」
「いいからいいから」
返そうとする手をやんわり止められ、これ以上断るのも失礼な気がするのでありがたく頂戴することにした。暖炉の焚かれた室内にいて分からなかったが、外は小さな雪が降り始めている。建物を出た途端、吹き付けた鋭い風に諒は眼を細めた。
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