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伍
「おい、津軽。こんな寒い日に外套はどうしたんだ?」
帰り支度をする最中、後の席に座っていた学友から言われた。それもそのはず。外は淡雪が降り始めているというのに、津軽はワイシャツにズボンなんて見るからに凍える服装なのだから。
「知り合いに貸したんだよ。先生に頼まれて出版社へ行った時」
「津軽、お客さんが来てるぞ」
会話に割って入った男子生徒は、教室の扉を指差し津軽の視線を誘導する。そこには居心地悪そうに俯いた羽織袴の人物が一人。
「なんだなんだ。いつの間に恋人なんて作ったんだよ」
揶揄う学友の声など今の津軽には届かず、荷物を乱雑に掻き集めると、別れの挨拶もそこそこに駆け出した。
「天谷さん」
名前を呼べば諒が弾かれたように顔を上げた。こちらの姿を捉えると同時に、安堵の色が見えたのは自惚れだろうか。
「こんな所でどうしたの?」
「外套を返しに。これ津軽のだろ?」
「あぁ、そう。俺のだよ。よく分かったね」
「うん。この留め具は津軽のだろうと思って」
外套は二松学舎大学に通う生徒なら皆同じにしても、前合わせの留め具にビードロを使っている人間は限られてくる。本来は故郷の名産品という意味合いだったが、こういう利点もあるのだと思った。
「先生に頼まれて出版社に行ったら、寝てる天谷さんを見つけてさ。今日は冷えるから大丈夫かなーって思ってたんだ」
「そんなの津軽だって同じだろ。寧ろお前が薄着で風邪をひかないか心配だよ」
「心配してくれてたの?」
「まぁ、それなりに」
「あはは‥‥!それなりでも嬉しいよ。心配してくれてありがとう」
受け取った外套を纏い、津軽は邪気のない笑みを浮かべた。諒はそれを前にすると何とも言えない気恥ずかしさに駆られる。端的に言って津軽は素直なのだ。年齢に不釣り合いなまでに素直で無邪気。諒は自分にはない眩しさを感じた。
「じゃあ、渡す物渡したし僕はこれで」
「待って!もし時間があったら見せたい物があるんだ」
帰ろうとした諒の眼がキョトンと瞬く。
断られるだろうか。また距離の詰め方を誤っただろうか。そんな思考が渦巻き、津軽は返事を聞くよりも前に諒の手を取った。後ろで困惑した声が一瞬だけ聞こえたけれど、温度の無い手が津軽を跳ね除けることはなかった。校舎から伸びる渡り廊下を行けば別棟に繋がり、今の時間帯はちょうど差し込んだ光が棚に詰まった本を照らしていた。
「凄い本の数‥‥」
書庫へ招かれた諒は、思わず見たままの感想を零す。仕事に関係なく小説の読み書きが好きだと言っていたから、大学の書庫は喜ぶだろうと踏んでいた。その津軽の読みは当たっていたらしく、棚を見上げた諒の眼が恍惚と揺れた。
「天谷さんこういうの読む?俺は結構好きなんだけど‥‥」
「なぁ、お前はいつまで僕を苗字で呼ぶ気だ?」
「えっ?」
棚に伸ばした手は呆れを含む声に停止する。諒の物言いからして、それを思ったのは今回が初めてではなさそうだ。
「僕が津軽を呼び捨てるのに、そっちがいつまでも苗字に敬称なんて変じゃない?」
「いいの?諒って呼んでも」
「はぁ?別に構わないけど」
何を躊躇う理由があるのか、妙なことを言う津軽に諒は不可解な顔で頷く。本来ならば諒が津軽を呼び捨てた時点で、津軽もそうするのが自然な流れではなかろうか。
「俺あんまり好かれてる気がしてなかったから、実は遠慮してたんだ」
「別に津軽のことは嫌いじゃないって言っただろ」
「そうだけど、嫌いじゃないは好きではないでしょ」
「まぁ、そう‥‥‥いや、でもそれは言葉の綾というか‥‥」
小説を書いている人間として嫌と言う程身に沁みていたから、諒は肯定も否定もしきれなかった。言葉はとても難しい。受け取る相手によって感じ方が異なり、そこが面白くも難しくもある。
「今の僕が津軽をどう思ってるかは一旦置いておいて、まだ会って間もないのに簡単に好き嫌いを決めるのも野暮かなって。だから嫌いじゃないみたいな濁し方をしたんだよ」
「一目惚れの可能性は」
「それは自惚れが過ぎる。そもそもお前は順序と道筋って言葉を覚えろ。津軽のそれは、好きな本の一冊も知らない相手への距離の詰め方じゃない」
「なら教えてよ。俺はね、これとこれが気に入ってて、こっちのは最近気になってるやつでー」
津軽は軽快に説明しながら本を引っ張り出し、諒の眼前に並べる。だから言いたいのはそういう所なのだと、何一つ分かっちゃいない男に諒は細かいことを指摘する気を失ってしまった。これが他の人間なら多少なりとも鬱陶しいと感じるのかもしれないが、不思議と津軽にはそういった感情は生まれなかった。
「僕はあまり漢文が得意じゃないんだけど、これどう読むの?」
漢学塾なので必然的にその類が多くなるのだろう。諒は一冊の本を手に取り顔を上げる。
息遣いも感じられそうな所で、津軽は鈍色の狭間から碧を見つけた。まるで曇天から覗く空模様だった。
色素が薄い上に前髪で遮られた状態では、普段の距離から見るとそう簡単に碧には気が付けない。
「ごめん‥‥。右眼、見えてないから距離感が掴めなかった」
「見えてない?」
諒の言葉を復唱すると、無言で頭が縦に振られた。理解の追いつかない津軽が一番に思い出したのは温度のない手で、白い肌も、友人が少ないという言葉も合点がいった。親族にいた盲目の男性も確か白い肌をしていて、長くは外を歩けなかった。
「ごめん。眼病なのにこんな時間まで付き合わせて。暗くなる前に送るよ」
「違う、これは‥‥!」
身を乗り出し否定しかけたが、諒はやはりまだその先を躊躇っていた。二人の間に沈黙が生まれ、意を決したように口が開かれる。
「この右眼は病気じゃない。生まれた時はもう少し碧色が薄かったらしいけど‥‥幼少期に一時行方不明の期間があって、発見された時から色が濃くなっていたんだ。だから病気でも何でもないよ」
さらりと前髪が梳かれ、淡く覗いた碧眼に津軽は息を飲んだ。
「犯人は?」
「それも分からず終い。五つの時だから、十‥‥十一年前かな。この際だから話してしまうけど、その頃から母親に虐待されて、見かねた父親に養子に出された。中流以上の誘拐なんて日常茶飯事だし、僕が華族でなくなった時点で犯人捜しは打ち切り。残されたのはこの右眼だけってね」
何てことないように語られる過去と口調は酷く不釣り合いで、拭えない違和感は津軽の心をざわつかせた。そして同時にやっとその朧げな全貌を見た気がした。
嗚呼、これが天谷諒という少年だと。
「諒の本名‥‥華族だった頃の名前、聞いてもいい?」
突飛した質問に空漠とした視線が交差した。今ばかりは感情なんて読めない方がいいのかもしれない。互いが相手の反応を予想しかね、恐れていた。諒は右手の人差し指を立て、空中に指先を滑らせる。
「鳥類の鷹に、司法の司で‥‥鷹司」
指先で書いた文字は残る筈も無いのに、まるでそれを掻き消すように宙を拭った。途端、自分たちの間に硝子窓が聳える。そう感じたのは果たしてどちらだっただろうか。
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