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桃の話
その日は昼頃から雨が降っていた。
下宿の女将さんが紅い番傘を貸してくれたので、遠慮もせずにそれを借りて出かけた。
途中の時雨橋という橋の上で一匹のクロ猫と目があった。魚でもいるのだろうか、この雨の中、濡れるのもかまわずに欄干のすき間からじっと下を見ている。
「風邪をひくよ」
しかたなく、傘は猫に被せてきた。猫は振り返ってじっと僕を見ていたが、瑠璃色の水底のようなその視線に捕われたまま、僕は着物の裾をもたげて街の中へと走り去った。
十二番街に入る頃には小降りになっていたその雨は、雨宿亭に着く頃にはほとんど止んでいた。
「雨宿の館なのに可笑しなものだね」
門のところで傘を差しながら、カンテラと手ぬぐいを持って待っていてくれた顔見知りの子使いにそう言うと、彼はそうですね、と無垢な顔をして笑った。
「桃、今日はずいぶんと早いのだね。いつもは大遅刻なのに」
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