第1章

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 こんなの誰も見ていない気がするけど、気になる人は気になるんだな。役所には毎日数々のクレームの電話が来るそうだから、放っておくわけにもいかないのだろう。そのせいで割りのいい仕事が来て、うちの社長はホクホクだ。  何十年ぶりかで来た沼は全然変わっていなかったが、幼い頃にときめいた、そこにうごめく生き物たちへの好奇心やナゾへのワクワクはもうすっかりなくなっていて、久しぶりに来てみたら意外に狭いなこの沼は、なんて感じた。大人が見るただの風景になっていた。どんよりとした曇りの日で、緑がひどく暗くて色を失っていた。もう七月になるというのに、夏どころか寒い気さえする。  それよりも、沼の真ん中の噴水の蛇口までどうやって行くんだよ、と、勤続年数は同じだが歳はぼくより三十五歳上の七十歳のじいさんと話しながら、思ったより面倒な仕事かもなと、現実感でいっぱいだった。  七十歳のじいさんは勢さんといって、六十歳までは大工をやっていた。六十歳まで働いたら定年、悠々自適な生活かと思いきや、奥さんが「三十年の家のローンを払うのに遊んでる場合じゃないだろ! 」と怒ったから、しょうがなく色々探して、ようやくこの会社に再就職したそうだ。大工だから自分で自分の家を建てるんじゃないんだ。  こう見えて、ぼくと勢さんは仲がいい。たまに呼ばれて飯をごちそうになったりする。夫の腕より大手住宅メーカーの家を信じ、そこで家を建てちゃう奥さんは紫のアフロヘアで、見かけも中身も雷さまみたいだ。いや、いい意味で。ぼくは奥さんが紫のアフロでも、肝っ玉のデカい人情あふれる人なことを知っている。勢さんは現役時代、仕事に厳しい鬼と呼ばれた職人気質で通っていたらしいが、奥さんがその勢さんよりずっと強いところがウケる。雷さまと鬼。どういう夫婦だ。  そんな勢さんも、うちの会社に来てからは厳しさの枷を払ったようにニコニコしたゆるーいじいさんになっている。ぼくはその勢さんしか知らない。  とりあえず、用意してきたウェーダーを身に着けて竿を片手に沼に入ってみる。  ウェーダーっていうのはサケ釣りとかに使う胸までの長靴なんだけど、ウェーダーと呼ぶのはぼくだけで、勢さんはそれを胸長と言う。そして胸長と通の呼び方をしておきながら、勢さんはそれを穿かずに沼の縁にいて、ぼくだけが沼に入っている。
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