読むな

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 僕は本を男に投げつけ、リュックを引っつかむと部屋を出て駆け出しました。どうやって靴を履いたかさえ覚えていません。民宿を出て真っ暗な夜の道を森に向かって走りました。するとあれほど明るかった家屋は真っ暗な廃屋に成り果てていました。しばらくの間は夫婦が何か叫びながら追ってきましたが、やがてその声も聞こえなくなりました。走っている間、草が行く手を遮るように足に絡みついてきたり、道が異様にぐにゃぐにゃと曲がったりしましたが、とにかく先へ先へと無我夢中で逃げました。あの分かれ道まで辿り着くと、もう一本の道のほうから、グルグルゴボゴボという奇妙な音が聞こえてきます。そして何かを噛んでいるようなくちゃくちゃという音。そして明らかに人のものと思われる無数の呻き声。振り向いたら終わりだ。もう生きた心地もしませんでした。 気がつくと朝になっていて、バス停の前で座り込んでいました。そのままやってきたバスに乗り込み、電車に乗って家に帰った頃にはどうにか落ち着きを取り戻していました。  パソコンを開き、検索すると予約したはずの「山鳴荘」のサイトは消えていました。それどころか、山鳴村の存在を示すような記述も何もありませんでした。僕はきっと足を踏み入れてはならないところに誘い込まれてしまったのだ、と思いました。もし、あの時、祭囃子を聞いていなければ、僕もあの肉塊の一つと成り果てていたのだろうと。でも、それはまだ終わってはいませんでした。  家でリュックを開けた僕は、そこにあの本が入っているのに気付き、悲鳴を上げました。確かに置いてきた筈なのに、禍々しいそれは僕を取り逃してはくれなかったのです。  やがて、少しずつ、異変が起き始めました。会社の行き帰りに人々の間をうろつく黒い影のようなものを見るようになり、その数は日に日に増していきました。家に帰り、横になると耳元で祭囃子が聞こえるようになりました。冷蔵庫に見覚えのない肉の塊が入っていたり、ずるずると引き摺るような音に目を覚ましてみれば得体の知れない血の塊のようなものが部屋を這い回っていました。  もう耐え切れませんでした。この本を読めないように遠くに捨ててこよう。そう思って休みの日に駅に行くと、駅は消え失せていました。そこには見覚えのある暗い森の道がぽっかりと口を開けて、僕を飲み込もうと待ち構えていました。  もう逃げ場はありませんでした。
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