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子供の頃は何のために歌うのかなんて、考えたこともなかった。
ただ歌うことが楽しくて、みんなと声が合う瞬間が嬉しくて、ただそれだけだった。
それだけでは満たされなくなったのはいつからだろう。コンクールに出るようになってからだろうか。自分たちの歌に否応なく優劣をつけられるようになってからだろうか。それとも思春期を迎えてからだろうか。今でもそれはわからない。
けれど、今も昔も真剣に歌っているのは間違いない。客席にいる誰かに向かって、あるいは自分自身に向かって、歌い続けている。
開場したばかりの碧原市文化会館の大ホールは、人のざわめきで満ちていた。
客層は同年代の若者に偏っているが、大学の合唱団ならばこれが普通だろう。開場したばかりで客席の三分の一以上が埋まっているということは、開演前には満員になるだろう。彼女は受付でもらったプログラムを小脇に抱えて、照明の消されたステージに目を遣る。
合唱団の団旗が中央に掲げられ、三段の雛壇が組まれている。舞台下手側に鎮座するグランドピアノはスタインウェイだ。上部に臙脂色の布が貼られた指揮台に、重そうな譜面台。高校時代はあの指揮台の上に立ったこともあったと、少女から一人の女性になった彼女は思う。
そう、高校時代だ。たった三年前のことなのに、随分前のことのように感じるようになってしまった。あの短くて濃密な時期。歌と一緒に生きて行くことを決めたあの季節。それが今の自分を作ったのだと彼女は考えていた。
忘れられないあの時間は高校三年生の夏、この碧原市文化会館で始まった――。
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