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「歌手になりたいの?」
「はい。でも難しいですよね。僕には大した才能もないし、誇れるようなことって何も無いんです」
「ふうん。だから特別な経験をしようとしてるの?」
「そうしたら、ちょっとは歌に深みも出るかなって」
頭の奥で低い声が何かを囁いている。言葉は聞き取れないけれど、内容はわかっていた。
「じゃあ、何曲か演ってみようよ」
男が顔を輝かせる。何て単純なんだろう。私は男に気付かれないように、こっそり下唇を舐めた。
◇
気がつくと、私は見知らぬ駅に立っていた。駅舎は目の前を走る古びた線路がなければ、それが駅舎だとはわからないくらい小さく、小屋の間違いじゃないかと思ってしまうほどだった。白い壁に青いラインが二本引かれているが、青色のペンキはところどころ剥げ落ちている。駅舎の周りは私の背丈ほどの草で覆われていて、風が吹く度に同じ方向にお辞儀をしていた。
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