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「あつー…」
オフィスから出るとアスファルトの照り返しでむわっとした温風に顔を叩きつけられた。
ハンドバッグからハンカチを取り出して額に僅かに浮かんだ汗を拭う。
少しは緊張していたらしい。
一つ溜め息を落として最寄りの駅に足を向けた。
もう見る事は恐らくない通勤途中の風景も何の感傷も呼ばない。
こんなにも呆気ないなんて思いもしてなかった。
私が大事にして歯を噛みながら守ってきたこの年月と功績が。
こんなにも呆気なく終わるものだったとは。
地下鉄へ続く階段を降りながらまた溜め息が出た。
取り返せないモノとはなんだろう。
高校を卒業してすぐにアルバイトをしていたこの職場に就職したことだろうか。
それとも、私生活を犠牲にした結果失った彼とのこの夏のことだろうか。
ちょうどホームに滑り込んできた電車に無意識に駆け足になって乗り込む。
少しでも早く帰って、少しでも彼と過ごそうとしてきた日々の癖だった。
背中で閉まったドアにとすんと身を預ける。
『お前変わったよ。そんなに仕事が大事なら俺に構わなくていいから。一週間やるからその間に出てってくれ。俺も自分を大切にしたいから』
二人が付き合った記念日だと忘れてた訳じゃなかった。
だけど欠員が出てどうしようもなかった。
そんな風にどうしようもないことが数えきれないくらい溜まった二週間前の夜に言われた言葉だった。
引き留めることは、出来なかった。
きっと私はこれからも繰り返して彼を傷付けると分かってたから。
次の日には荷物を纏めて二年間住んだ部屋を出ていった。私の荷物は二年前からそれほど増えていなかった。
車内アナウンスにはっとして手近なシートに腰掛ける。お昼前の車内は空いていた。
こんな時間に電車に乗るのも久し振りだ。
お年寄りと営業途中のサラリーマンがまばらに点在する車内を一瞥した後でスマホを取り出す。
彼と別れた事を一番に悲しんでくれた友人からのLINEを開く。
日付は一週間前。
『光希が他の女とあのカフェに居たよ!別れてすぐに信じらんない!!別れて正解だったんだよ、あんな奴!』
最低なのはどちらなのか。
今でも私には分からない。
別れてすぐに、もしくは少し被って他の女と付き合った彼なのか。
それとも毎日の生活の中で少しずつ彼を疎かにしてきた私なのか。
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