プロローグ

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でも、急に馬鹿らしくなったのは確かだ。 毎日くたくたになって、帰って来ても迎えてくれるのは実家の親だ。 結婚するといっていた娘の出戻りに母親は悪鬼の如く怒った。 恐れおののいた父親と一緒に頭を下げ、その辺にあった饅頭を献上し何とか落ち着かせ、友人からのLINEを見せて彼にはもう彼の人生があるのだと説明した時。 その時、私は初めて泣いた。 胸が詰まったように苦しくて、上手く喋れなくなった。 当たり前の日常となった光希の笑った顔も、下手くそな目玉焼きも、明かりの灯った二人の部屋も、全て失ったのだと漸く理解したのだ。 それまで冷静だった娘が今度は一転し泣き出したことで逆に冷静になった母親が溜め息をつきながらご飯を作ってくれた。 LINEには未だに返事が出来ず、その心情を察して余りある友人からはその後の連絡もない。 母親の作った親子丼を泣きながら食べ、お風呂でも泣いてうるさいと叱られ、実家の埃っぽい自室のベッドでもしくしくと泣き続けた。 そうして次の日の朝、仕事を辞める事を決めた。 我ながら呆れている。 光希を失っても守りたい筈だったモノをこんなに簡単に手放そうと思うなんて。 色々な感情が混ざって、まだ分からない。 分からない内に退職の意思を伝えた。 家では今度は父親が悪鬼になったが母親は無駄だと思ったのか味方をしてくれた。 部下にも伝えてひとしきり詰られたあと、 『お疲れ様でした、後は私達に任せて下さい』 と言われてほんの少しあった未練も捨てる事にした。 正気ではないと思うし、悪鬼になった父親にも正気ではないと言われた。 その通りだ。 たった一つの失恋で、積み重ねてきた全てを捨ててしまおうとしているように見えたのだろうし、事実そうなのかもしれない。 だけど、ただ本当にシンプルに疲れてしまったのだ。 少しくらい休んだって構わない。 やっとそう思えたのだから。 「次は湯島でございます。お降りのお客様はお忘れ物のないようお気をつけ下さい」 アナウンスの知らせた降車駅にスマホをカバンにしまって立ち上がる。 明日から、何もない。 比喩でもなく本当に。 ほんの僅かな高揚と沢山の心細さを抱いてドアまで歩く。 明日の今頃には私はもう東京には居ない。 でもまだそれを私は知らない。 そう。この夏のことを。
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