第一章 負傷

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 菊は優しい娘だったが、その一方で頑固な一面があり、女中としては扱いにくい娘だった。  色黒の田舎娘で、さほど器量がいいわけではない。英輔にしても女中との仲など暇つぶし程度に考えて、我が子の誕生など嬉しいどころか未来に汚点を残すと心配していた。  しかたなく、「二人で話そう」と、誰もいない客間に菊を呼び出し、「大磯と一緒に東京の産婦人科へ行って子供を処分するんだ。もちろんお前のこれからもあるから秘密は洩れないように手を打っておく、お前の身体を痛めるんだから充分な慰謝料も用意しよう」と、説得したのだが、あまりに愛情のない要求だからだろう菊は黙り込んだままだった。  「どうした、返事をしなさい」  口をへの字にして、黙ったまま首を横に振る様子を見ているうちに、英輔は菊が憎らしくなってきた。  「聞きわけのない! 身分をわきまえなさい!」  とうとう怒りを抑えきれず怒鳴ると、菊はおびえもせずに笑いだした。  「本音が出ましたね、清国と戦ってきた英雄だと聞いたけど、とんだ看板だおれじゃないですか。あなたは自分のことしか考えない身勝手な人です。お坊ちゃんなんです。そんな人はこちらから願い下げだわ!」  英輔は思いがけず、女中から罵られて蒼白になった。今まで若さばかりの田舎娘と考えていたが意外にも聡明だったのだ。  それでも虚勢を張って、「なんだと!」と、脅してみたものの通用せず、菊は顔を高潮させて英輔の酷薄さを責めた。
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