2.  上海の面影

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 上海には美人が多いとはいえ、こんな純粋な眼差しを持つ女性には出逢ったことがなかった。あまりに綺麗なので、もしかしてハニートラップだろうか、と懸念しなかったわけではない。  しかし、にこりともせず、感謝の言葉さえ吐けずに身を震わせている子を暗い夜道に置き去りにするわけにもいかず、手当てをしてあげよう、とか言い含めて領事館に連れ帰った。夜警が怪訝な顔をしたので、強盗に襲われそうになっていた、と釈明した憶えがある。  名を教えられたが、きっと仮名だろうから、ここではスーとしておこう。  スーは女子大生だとのことだった。後に密かに調べさせたところ、確かにその大学の電子工学部在籍者名簿に彼女の名前があった。追い駆けていた男は元カレだそうで、怖くて夜道を一人で歩けないという。  故郷は南京で両親は裕福らしく、大学に通うために上海で独り暮らしをしていると打ち明けてくれた。男のことで何か困ったことがあったら連絡してくれ、と義侠心に駆られて連絡先を手渡したところ、しばらくしてスーからメールが届いた。  請われて大学の門で待ち合わせると、キャンパスの噴水わきに立っていた彼女がこちらを見つけて手を振り、一目散に駆けて来た。  六月の蒸し暑い日で、花柄のサマーワンピースがスローモーションのように揺れ、その瞬間に胸が素手でつかまれたように痛んだ。いや、心を捉えられた、と白状すべきに違いない。  就職に有利だから英語に加えて日本語も勉強することにした、と瞳を輝かせて報告してくれる女子大生とカフェでお茶したり一緒に食事するのは、まるで青春時代を取り戻したかのように楽しかった。  無論、こちらは妻帯者の外交官だという自覚はあり、同僚や他の日本人が行きそうな高級店は避けたが、東京より人口が多い密集した上海には、密会できる場所はいくらでもあった。  そう、密会という言葉が胸を過るぐらい、最初は良心の呵責があったのだ。  三十七歳のいい年をした男が、若い大学生の女の子とデートする図は、他人から見たら滑稽に違いなかったし、日本の外交官が現地の中国人女性と醜聞を起こすわけにはいかない、と心得てはいた。  振り返ってみれば、中年男になぜこんな綺麗な女子大生が心を寄せてくれるのか、一応疑ってみるべきだった。
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