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「ありがとうございました! 秋野夕穂でしたー!」
アコースティックギターの残響は俺のバカでかい声でかき消され、どこか誇らしげにその場に響き渡った。
バーガーショップのバイトを終えたその足でこの場所に赴き、二時間ほど唄う。そんな日々が、これで終わってしまったんだ。
見渡すと何人もの人が拍手をくれていた。そして、それぞれの道へと戻って行く。
気のせいかもしれないけれど、以前よりも少しだけ俺の歌を聴いてくれる人が増えたようだった。気持ちを込めて一曲一曲を丁寧に唄う。そんな当たり前のことを俺は今年の春に初めて、ちゃんと知ることができた気がする。
「明日の路上ライブには来られるかな。君に聴いてほしい歌があるんだ。待ってるよ」
もっとうまい文章を書けなかったものかと同じ反省をしながら、昨夜送ったメールをまた読み返す。けれど彼女は来なかった。それでも仕方ないと覚悟はしていた。これが彼女の答えなのだろう。実際俺も今、彼女に会ったらどんな表情でどんな言葉でどんなことを話すのか、全然見当がつかない。だからきっと、これでよかったんだ。
携帯をポケットにしまい、ギターを下ろそうと顔を上げる。つい目をやった柱の陰。俺の視線が、そこに釘付けになった。
ワインレッドのワンピースにブラウンのストールを羽織る彼女が、こちらに笑いかける。春とは違う色を纏う姿に、季節の移ろいを感じた。
俺はギターを抱え直す。
歩み寄る彼女が微笑む。
「アンコール、お願いできるかな」
「……いつからいたの?」
「ふふ、ナイショ」
照れくさくて質問に質問で返してしまった俺に彼女は悪戯な瞳で返した。
「アンコールありがとう」
誰もいなくなったのを確かめて俺が言うと彼女は、甘やかな秋風に柔らかく髪を揺らして楽しそうに笑ってみせる。
「次で、最後の曲です」
タクシーが放つスポットライトと、夜行バスの背景演出。秋田駅前で五年続いた俺だけのステージに、今夜、幕が下りる。
「夕穂くん」
唄い出そうとする俺に彼女が声をかける。
「聴きたい歌があるの」
意外な言葉だった。俺はその続きを待つ。
「春の頃、夕穂くんがよく唄ってたバラード。あぁ、この歌好きだな、って、初めて聴いたとき思ったの。こんな素敵な歌を書けるこの人はどんな人なんだろうって、いつもこっそり覗いてたんだ、あそこから」
彼女は少し離れた柱を指さした。そこは確かに、彼女がいつも立っていた場所だ。俺が、彼女を見つけた場所。
「あの歌にね、私、本当に救われたの。花をモチーフにした歌だから、私に唄ってくれてるんじゃないかって、勝手に自惚れてたんだ。……あの頃はお互いに、名前も知らなかったのにね」
そんなせつなげな表情をしないでくれ、と俺は心の中で言う。
花をモチーフにしたバラードと聞いて、嬉しさが胸の奥に広がっていく。
「俺がね、メールで言った“君に聴いてほしい歌”って、それなんだ」
そう言うと、彼女も嬉しそうに笑う。
「自惚れていいよ。あの歌は、君のために書いた歌だから。でも、ちゃんと伝えられる自信がなくてさ、何度も何度も書き直して、昨日やっと完成したんだよ。だからどうしても今日、聴いてほしかったんだ」
儚げな、けれど凛と咲くこの微笑みを、俺はずっと大切にしたいと思った。たとえ明日、離れ離れになってしまうのだとしても。
「出逢えて嬉しいよ、未華子ちゃん」
顔が熱い。指が震える。心臓が飛び出しそうだ。それでも俺は唄うと決めた。
初めて買ったギターも、初めて抱いた想いも、気付けばこんなに傷だらけになってしまったけれど、それでも俺は、彼女のために唄うと決めたんだ。
彼女は嬉しそうに頷いてくれる。
「君に唄います。『花に夕影』」
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