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その晩やって来たのは、天下に近い身分の人だった。
お忍びの男は裏門からやって来て、他の客に決して会わないように部屋にやって来た。
座敷には、いつも以上に豪華な料理と酒が用意され男が私を待っていた。
「鈴蘭でありんす」
襖を開け頭を下げると、男の低い声がした。
「かしこまるな、近くへ」
「……はい」
男の声が鼓膜に優しく触れる。
ちょうどよい音の声には流れるように放たれる。
私はゆっくりと顔をあげて襖を閉めると漆塗りの盃で酒を飲んでいた男の隣に座った。
「……」
「恐ろしいか?」
「いいえ」
男の顔には刀傷が残っていて、片方の手にも包帯が巻かれているのが見えた。
「人の影というのはこういうものだ」
切なそうに儚く微笑んだ男に胸の奥、腹の底、躰の中のどこかが酸欠になったように痛んだ。
「影のできぬ場所では人は無力でありんす……月の光でも蛍の光でも影はできるもの、貴方様は本体より強きものということでありんす」
私がそういいながら酒を足してやると男は少し驚いて笑った。
「噂どおり、姿形だけでなく肝まで出来た女だな……なんと呼んでよいか?」
「お好きに……」
「オマエは何と呼ばれたいんだ?」
「え」
「他の男どものように鈴蘭と呼べばよいか?」
私は鼓動が早くなるのを案じた。
こんなことを言う男は初めてだった。皆好き勝手に私を呼んだ。
花魁と言っても所詮は身売りの女。
自分よりも下の女だ。そんな女に呼び名を選ばせるなどという高尚な考えの男などなかなかいないものだ。
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