第4章 逃げてきた男

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 普段の俺達の関係は仕事の上司と部下に縛られていた。  空間デザインの設計士という仕事は、常に想像力を働かせ尚且つイメージを構成する素材を実体化させなければ、顧客の期待に応えられないし、何よりも発注者が納得するためにいくらでも書き直す忍耐力と対応力が要求される。  何度も何度も練り直し書き、要望を確認しては書き直して、理想に近づけていきつつもデザインにおいては提案しなければ本領発揮には至れない。気力も体力もコミュニケーション能力もなければ立ち行かないのが、デザインという職業だと思う。  そんな緊張感のある職場で何年も働く彼女は、最初の一年間俺の指導担当をしてくれた恩人でもあった。  器用で人当りに悩む要素もなかった俺が最初に躓いたのは、顧客との交渉と対応の柔軟性だった。クリエイトすればそこに自分らしさを刻印したくなる。でも、空間デザインの現場で未熟者の自分らしさは好まれるわけがない。その現実を受け入れることが困難であるなどと、最初自分で気付くこともできないで、俺は妥協する道をただ拒絶していた。  自分のコンセプトと顧客のコンセプトがかみ合わず、何度カタチにしても納得させる技量がないことで、無駄に落ち込む一方な俺を励まし続けてくれた人……。  出会ったばかりの一年目ではまだ、彼女の左手に指輪は存在していなかった。
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