スミレの騎士

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 少女は革靴を脱ぐと、足元に揃えた。その下に「遺書」と書かれた手紙を置く。そこには「近藤 スミレ」という名が綴られている。可憐な紫の花が、彼女の名だ。  遺書の準備を済ませ、彼女はもう一度、五階分の高さを見下ろした。一歩踏み出したが最後、人間ではとうてい助からぬほど、頭も体も折れ曲がることだろう。猫は階数が高い方が助かる率がいいのです、と云っていた小学校時代の理科の教師の言葉を思い出す。来世は猫になろう。少女はそう思いながら、まるで飛び降りることの決心をしたかのように大きく深呼吸をする。 その時だった。 「死ぬのか、ブス」  屋上には誰もいないと安心していたせいで、スミレは「わぁ!」と叫び、慌ててその場にしゃがみ込む。声の主を探して背後を見るが、誰もいない。 「こっちだ、ブス」  声は天から舞い降りた。  スミレが背後のフェンス上に目をやれば、男子生徒が一人、威風堂々とした態度で立っている。耳障りだった強風のゴゥゴゥという音が止み、屋上の鳩が四羽飛び立った。少年の背中で羽根が舞い、まるで天使が翼を広げたかのような神々しい光景が、スミレの視界いっぱいに広がる。絹のようにしなやかな黒髪が風に揺れている。その隙間から覗くマリンブルーの瞳は、子猫のように大きく見開かれ、スミレを興味深そうに凝視している。白地に紺色の線で彩られたブレザーの制服を、だらしなく着ているくせに様になる。未発達の体の白肌は、陽光を浴びて照り輝いていた。  あまりにも完璧な容姿だが、少年の白い足だけが異質な雰囲気を纏っている。少年は、真っ赤なピンヒールを履いているのだ。ズボンの裾は幾重に巻き上げられ、飴細工のように折れてしまいそうな細い足首をさらしている。ブレザーの制服に紅いピンヒールという異色のコラボ。アンバランスなフェンスの上ながら、少年の姿はなお勇ましい。  おそらく、スミレの通うここ、私立百華高等学校の関係者でなければ、ビョルン・アンドレセンの如き儚い美しさに、桃色吐息で見惚れていただろ。しかし悲しいかな、この学校に入学して二カ月目であるスミレは、この美しき少年を前にして顔面蒼白となる。 あぁ、彼は薔薇ヶ咲 美彦(ばらがさき よしひこ)だ。どうしてここに?
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