雪布団

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雪布団なるものを知ったのは、妾の雪絵が二十六歳*という若さで亡くなる二日前のことであった。彼女は青森の三戸から十六の年に上京したが、集団就職の型にハマらぬ女であったため、紹介された仕事をそうそうに辞めると夜の街へと逃げ込んだ。  両眼の一重のせいかいつも眠たげな顔をしていたが、どこか愛嬌のある笑みで相手の懐に潜り込むのが上手い。なにより肌の白さが一等際立ち、背中の白さに至ってはこの世に産まれ落ちてから一度も陽を浴びたことがないのではと疑うほどの純白であった。 雪絵とは彼女が死ぬ三年前に出逢い、どれ面倒を見てやろうと北鎌倉の安い別荘へ囲ったのが始まりだ。人里離れた場所にあるその別荘は、紫陽花で有名な明月院の横道を抜け、坂道を上った先に建ち、買い物へ行くにも車で片道三十分もかかる。  かつては名声を誇った脚本家の私だが、今は貯金を切り崩しての老人生活を送っている。こんな田舎くんだりで囲いやがってと文句の一つでもとんでくると思っていたが、雪絵は北鎌倉に住むことをすんなり承諾してくれた。ここさ青森の山に似てるわなぁ、と無邪気に言っていた。 「それに東京と違って雪が降るもの」とも言っていた。 雪絵は雪狂いと自称するほど、雪を愛した女であった。雪の降る日をラジオのニュースで聞けば、真っ先に私へ電話を入れ「雪が降るよぉ」と、鈴を転がしているような声で報告してきた。  雪が積もれば裸足で雪原を歩くので、凍傷になりかけたこともある。そのため彼女が冷えて帰ってくると、私は布団のなかで数時間ほど抱きしめ温めてやったりした。 雪絵は普通の人が体験してきた雪遊びだけではなく、雪飯、雪将棋、雪踊り、雪酒といった常人があまりしないであろう方法で雪と戯れた。特に雪将棋なぞは二人の気に入りで、それぞれが作った鮨の握りほどの雪塊を将棋の盤へと並べ、それを駒として指すのだ。私よりも将棋の弱かった雪絵は、敗色が濃くなると火鉢を盤へ寄せ、わざと駒を溶かした。悪戯っ子のように溶けちゃったねぇと嗤い、濡れた盤を拭く彼女を愛おしく思わない男がいるのだろうか。いや、いないだろう。
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