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「……内田百けんのな。冥途って話。知ってるか?」
「急になんなんだ? 何? 誰だって?」
「うちだひゃっけん、だ。けん、という字は、ふつうは出ない。もんがまえに、月と書くんだ。古い作家でな。そうだな…芥川龍之介が生きていた頃の、な」
「そいつはまた、古いな。で、その作家が何とかを書いたって?」
「冥途というタイトルの話だ」
「どんな話なんだ?」
「そうだな…暗い、大きな土手があって。その下に食堂のような、待合室のような、暗い小さな店がある…」
「ふうん。今、俺たちがいるような店かな?」
「今、俺たちがいるような店が、だ。で、主人公ーーたぶん、百けん自身だろう。そいつは、いつからかそこにいるんだが…自分以外にも何人か、その店にいることに気がつく。話し声が聞こえてきて、な」
「ふうん」
「ところが、その話し声の内容やらなにやらを聞いている内にな。その中の一人がどうやら、自分の身内らしいことに気づくわけだな。それも、おそらく、死んだ父親らしい…と」
「へえ…」
「そうこうしているうちに、他の人間は皆、影みたいに席を立って、外に出てしまう。そうして…土手の上を、どこかに歩いていってしまう。そんな話でな。冥途っていうのは」
「ふうん。つまり…怪談ってことか?」
「どうかな。百けんの友人の話じゃ、百けんが見た夢らしいが…」
「ふうん。土手がどうとか、言ったな。そいつは、この店の外にあるような…大きな土手なのかなあ?」
「この店の外にあるような、大きな土手かもしれんな。ひょっとしたら」
「俺たちは…いつから、この店にいるんだっけ?」
「さあ…いつから、だったかなあ?」
「それにしても…暗いな。この店」
「そうだな。暗いな。外もそうだが…暗くてたまらないな」
「あのな」
「ん? 何だ?」
「あのな…今、思い出そうとしているんだが…お前の名前、分らないんだよ」
「そりゃそうだろう。言ってないからな。俺もお前の名前も素性も知らん」
「言ってないっていうより…言えなかったんじゃあ、ないのか?」
「何でだ?」
「俺…なあ。自分の名前、思いだせないんだよ。いや、仕事も生年月日も家族のことも…何もかも。それから
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