オレは幸せになりたかっただけだ。

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 よく警察に捕まらなかったと思う。  夜が明ける前にオレは狐池のそばの駐車場に着いた。外に出ると、嫌な湿り気を帯びた生暖かい風が吹いていた。駐車場の奥にある蛍光灯が明滅している古びた自動販売機の横から、池のほとりに向かった。  暗がりの中、いなり寿司をのせた皿を土手に置き、オレはひざまずいて祈った。 「女房と娘を…… 女房と娘をオレに返してくれ」  オレの声に、頭上であざ笑うような鳥の鳴き声が応えた。  風がやみ、水の跳ねる音が聞こえた。  オレは音がした方を見て、目を凝らした。  やがて、目が慣れたオレは、「それ」を見た。  関節もさだかではない手足を動かしながら、ブヨブヨとした体表を蠕動させて、何かが湖面から土手に這い上がってきた。灰色の皮を流れる油じみた体液が、池に滴り落ちる音が聞こえた。神聖さを持ちながら、生まれたそばから海に流された得体のしれなさが感じられた。  ふいに女房の嘲る声が聞こえた。 『東京のおいなりさんでも、きつねごはんは食べるんやろかね?』  狐の耳を模して混ぜごはんを入れたものではない、俵型でメシだけを詰めたおいなりさんをきつねごはんが吸い込んだ。次の瞬間、灰色の表皮がどす黒い血の色に変わった。  思っていたものではないものを食わされた怒りに、それは不気味な唸り声をあげた。それでも怒りが収まらないのか、体表から突起したものを振り回し出した。  その突起物が次第に形を変えていった。じわりじわりと盛り上がり、何かに変わり始めた。  その輪郭には見覚えがあった。  女房と娘だ。  二人が帰ってきた喜びよりも、儀式をしくじった後悔と恐怖の方が大きかった。  オレは後ろも見ずに逃げ帰った。  きつねごはんの怒りは収まってはいない。四〇階の部屋から外を見ると、赤黒いきつねごはんが浮かんでいる。  昼でも、夜でも、その姿がオレには見える。  帰ってきた女房と娘が、その背に乗っている。  二人は白目を剥き出しにして、オレを責めることもなく……  ただ見ている。 - 了 -
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