第3章

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 サワサワサワサワ・・・・・。        え。今、こんな時にか。  ちょうど、佐々木さんの食事が終わった時だったからよかったけど、そうじゃなければ、正直、こんな小さくて軽いスプーンを口に運ぶことさえ大変になる。握力を失う。背骨がぐにゃぐにゃになる。        イヤなことがあったわけじゃない。体だって快調だ。仕事をする気だってちゃんとある。集中してやってた。黄昏れなんて忘れてた。それなのに、首の根元が何かを感知する。それがぼくの力を奪う。闇が来る。今すぐ仕事を止めて、どこかちがう場所に行かなければいけないような、いても立ってもいられない気持ちに襲われる。突然、脈絡なく。        スカイダイビングをやると、こんな感じなんだろうか。落ちる。ヒューン!と心臓をわしづかみにされるような感覚。後頭部が後ろに引っ張られるような感覚。体の奥の奥、深いところ、魂が揺り動かされるような感覚。ああ、ぼくは何をやってる。どうしてここにいる。        見えない夕陽が燃える。大きい。それが少しずつ傾く。せつない、やるせない、悲しい、孤独。帰りたい、早く。どこに? そんなの知らねぇ。誰か、ぼくの手を握ってくれ。ここに、つなぎとめろ。そうでないと、闇が来る。左の肩の下が盛り上がる。ドクドクと脈打つ。小さな星雲がそこにあるみたいに、渦を巻く。渦がぼくの脳を吸収して、視界を奪う。黒で覆われる。ぼくはいろんなことができなくなる。イヤになる。唾を飲み込む。懸命に呼吸する。なんとかしようとする。        これは夢じゃない。しかも、仕事中だ。普通にしてないと。だって、ぼくがもし佐々木さんのスプーンを持てないくらい脱力してうずくまっても、そうなる理由がこの世にはないから。ほんとは、ぼくは泣きそうだ。叫びたいくらい大変だ。帰りたい、早く。だから、どこに? どこに帰るんだ。        時計を見れば、ほんの一瞬の出来事。周りの人が気づかないくらいの異変。でもその間、ぼくは固まって一歩も動けない。そしてその後、言いようのない虚脱感と嫌悪感がやって来る。周り全部をなかったことにしたくなる。消してしまいたくなる。すべてを遮断して、自分ひとりのシェルターに入りたくなる。思うだけで、現実には無理だけど。
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