1 くぬぎ

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 彼女は甘噛されるのが好きだから、おれはその行為から試みる。右肩を下唇を左脚を右足を右腹を左背中を右胸を右瞼をおれは噛む。左肩を上唇を右脚を左足を左腹を右背中を左胸を左瞼をおれは噛む。優しく甘く。噛めば彼女の香りが匂い立つ。おれの鼻腔を刺激する。彼女の肌の弾力と艶が、おれの歯や舌を伝い、掌や頬に還り存在感を際立たせる。互いの存在を大きくする。が、うっかり興奮すると大変だ。くぬぎがそれについていけない。乱暴に腰を動かすバカなおれ。が、くぬぎは一言も文句を言わない。非難の目つきでおれを見返さない。ただ優しく、腰の動きを合わせられないという反応を見せるだけ。それしか想いを表さないのだ。もちろん想いは、おれに伝わる。おれは自分だけが愉しんでいたことに気づき、反省する。ついで行為を二人のものに還す。ゆっくりとゆったりと身を動かす。永遠と思える一瞬を永続させるため、単純な肉の喜びを崇高な精神の融合に転 換させるため、おれは静かに興奮し、精を放つ。喜びと疲労をないまぜに、自分と彼女を一本の紐に撚り合わせるかのように。  出来得ることならば一日中、彼女とずっと愛し合いたい。が、生活があれば、そうもいかない。朝早く、ベッドで掛布団に包まるくぬぎに別れを告げ、おれは工場に働きに出る。が、この時世、週五日続く仕事はない。おれが工場から貰えた仕事日は、たった二日。けれども、それで感謝せねばならないのは当然のこと。  以前、フルタイムで働いていたとき、おれが勤める工場は寮を持つ。寮といっても、古びたマンションの数部屋だが。階も広さも違うワンルームと夫婦用。当然のように、おれとくぬぎはワンルームの方に住む。が、会社の危機で寮が売られる。おれとくぬぎは生活する場所を探さなければならなくなる。     
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