第二章  ー 鎌倉 ー

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 この後、成氏は上杉家との対立に蹴りを付けるため、宴会を催して関東管領上杉憲忠を招待し、なんとその場で殺してしまった。  これに怒った上杉家の者は、幕府に成氏の悪行を訴えて討伐軍を要請。上杉勢の有力者長尾氏も、成氏に対し挙兵するも、本拠の越後(えちご)上野(こうづけ)の軍勢が参陣する前に、成氏に合戦に持ち込まれて駆逐されてしまうが、その後、鎌倉のある相模(さがみ)の隣国、駿河(するが)国主で足利一門の有力守護大名だった、今川範忠(いまがわのりただ)が、成氏が北関東に兵力を展開してる隙に、幕府の命により大軍を率いて鎌倉を攻め落としてしまう。以後成氏は鎌倉奪還が叶わず、成氏派大名の有力者、結城氏の勢力に近い古河(こが)に本拠を移し、以後は古河公方(こがくぼう)と名乗り、関東の大河、利根川を挟み、利根川の北東側を公方勢力。西南側を上杉の関東管領勢力として、関東を二分して三十年近く、この地域は大乱と成るのだった。この乱を世に享徳(きょうとく)の乱と呼ぶ。  この戦乱で、対古河公方の前線基地として、江戸城を築城した名将、大田道灌(おおたどうかん)の登場や、この両陣営の対立を巧みに利用して、南関東に(くさび)を打ち込み、下克上を達成して、のちに関東に一大勢力の礎を築く、後北条氏(ごほうじょうし)の初代、伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)北条早雲(ほうじょうそううん))が登場する事になる。  この乱により、関東に於ける古典的秩序が失われ、中央に先駆けて、いよいよ関東は戦国時代へと突入するのであった。  奇しくも、立身出世を意図して全国放浪を続ける信廣が、未来を期待し他の土地へ移動するのだが、その信廣が立ち去った後の地が、軒並み切り取り次第で伸し上がれる戦乱の地に成ってしまうと言うのも、皮肉な話ではある。  さてさて、話は逸れてしまったが、こうして信廣は公方成氏の身を心配しつつ、鎌倉の街をあとに、一路北へ向かった。
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