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『あみ』
中年の男性が一人入ってくる。
『パパ!』
少女が嬉しそうな声をあげる。
くたびれた背広をきた男性は、困ったように笑いながら部屋へ入ってくる。彼も、実際の人間ではない。
『パパ、ママはいつ帰ってくるの?』
『ママはもう、帰ってこないよ』
男性は龍一に構わず、あみに近づく。
右手に光るものが見える。包丁、だ。
気づいて動こうとするが、動けない。足が動かない。床から生えた黒い手が、足をつかんでいる。
『ママはね、逃げたんだ』
「逃げろ!」
叫ぶ。叫んだつもりだった。かすれた声しかでない。少女には届かない。
『あみの目が見えなくなったことに耐えられなくて逃げたんだ。あみ、パパは仕事を首になったんだ。あみ、悪いけど』
男性は微笑んだ。なぜか、微笑んだ。
見たくない、見たくない。これから起こる事を、俺は、見たくない。
「逃げろっ!」
『もう無理なんだ』
男性は一度優しく少女の髪を撫で、右手を少女の腹に向かって突き出した。
見たくない見たくない。
見開かれた少女の目。
『パパ?』
小さい声。
赤。
『ごめん、あみ』
二回目。
何か、いやな音。
見たくないのに。
『痛い……』
痛い痛い痛い痛い痛い。
助けて。
『パパ、痛いよ。助けて』
痛い。
助けて。
誰か助けて。
痛い。
見たくないのに。
動けない。助けたいのに。
何も出来ない。
痛い。痛い痛い痛い。
どこからが自分の思考で、どこまでが少女の思考なのかが、分からない。
痛い、痛い痛い。
動けない助けて痛い違うこんなはずじゃ、痛い。
ごめん。
視界が回る。
目を閉じてしまいたい。
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