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夏。
二週ごとに交代する夜勤の最終日。作業の引継ぎを終え、翔太が会社を出たのは朝七時だった。会社から車で30分の場所にあるアパートに帰り、冷蔵庫から缶ビールを取る。プルタブを引き起こし一気に流し込むと、喉から食道にかけ痛みを伴うしびれが通過していく。すきっ腹に吸収されたアルコールはたちまち全身にまわった。
疲労と酩酊にまかせシャワーも浴びないままベッドに沈み瞼をとじる。今週も一週間、泡みたいに時間が消えた。1日1日にちゃんと朝と昼と夜があったことはわかっていてもまったくその尺を感じなかった。
カーテンを閉め忘れたせいで瞼をとじても明るいが、もう起き上がる気力はない。そのまま泥みたいに眠りこけた。
夕方。
西日が差し込む部屋の暑さと網戸をから入ってくるどこかの家の夕飯のにおいで目が覚める。――すんげーカレーのにおいがする。まだどれだけでも眠れそうだったが週明け、月曜の朝からはじまる日勤にからだのリズムを合わせておかないといけない。
怠さの残るからだを起こし、机の上の煙草とライターを掴んでベランダへ出る。手すりに頬杖をつき、とろりとしたなまぬるい夕方の風を瞼で受けながら先端に火をつけた。
むかい通りにあるちいさな居酒屋に店主の男が暖簾をかけている。その後ろを橙色の毛をした猫がゆうゆう歩いていて、猫の背中にも西日があたっていた。
藍色にオレンジを流し込んだような夕焼けに染まる町を眺めながら、翔太は昔あいつが言っていたことを思い出す。まだお互い寮暮らしだった。翔太の部屋に缶ビールを持って押しかけて来たあいつが、夕涼みしようぜと言いベランダの柵から足をたらして座る。足をゆらゆらさせながらふいに言ったのだ。
――「俺、この季節のこの時間にさー、どっかの家からしてくる風呂の石鹸のにおいとか、台所で玉ねぎ炒めてるにおいとか。そういうの嗅ぐとなんかほっとするんだけど、そのあと無償にさみしくなって帰りたくなるんだよね。帰りたいのは実家ってわけじゃないんだけど、でも確かにどっかに帰りたいんだよ。お前にこの感覚わかる?」
そんなもん全くわかんねーよ。翔太は煙を吐きながら記憶の中のあいつの声にこたえた。部屋に戻り窓を閉め、よその暮らしの気配をしめ出す。エアコンのスイッチを探していたらぐしゃ、と足の裏で何かを踏んだ。
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