2人が本棚に入れています
本棚に追加
「もしかしたら、あの子は諦めちゃったのかも。だって来ないんだもの。絵は完成しないのかも。なんてったってあたしね、」
少女は壁を撫でる。まだ絵の具の乗っていない、乳白色のつるりとした壁だ。
「なんでこの絵を描いてるのか、忘れちゃった」
*
あの寂しい音はいったいどこから聞こえたんだろう、と冷たいコンクリートを踏みながら思う。かんかんかぁん、と虚空に響いたあの音はいったいどこからどこに行ったんだろう。
重力からほんの少しさようなら。少女が歌うように告げた言葉だ。これを言われたあの時がどれくらい前なのかは、わからない。ここには朝もないし夕もない。食事も水分も摂取していない。時間の過ぎ方がとても緩慢で掴みどころがない。時間に掴みどころがあるとは、あまり、思えないけど。
宙に浮いている線路を見る。どこからどこに行くんだろう。とう、とコンクリートを蹴る。軽く一メートルは飛び上がれた、だろうか。そのままゆっくりコンクリートに落ちる。そんなわたしを軽く見上げながら、少女は首を傾げながら口を開く。
「なにやってるの?」
「重力からさようならを実感中」
少女の問いに答える。首を傾げたまま少女はリンドウを摘む。なにやってるの、と聞いたのは、今度はこちらの方だった。
「なにやってるの?」
「たまに摘むの。一度放置してたらホームがすごいことになっちゃったから」
「へぇ。このリンドウって咲くんだ」
「咲くけど、枯れないのよ」
うつむきながらとつとつと少女は言った。一番最初会った時に交わした言葉以外は、こんな風にとつとつと喋ることが多い。歌うように喋ったあの声はとても綺麗だと思ったのだけど。
手のひらいっぱいに摘んだリンドウを抱えて、少女がホームの端に向かう。黄色の点字ブロックまで再現してあることに、わたしはいま気付く。ただしこの駅の名前が書いてある看板はない。
たくさんの青い花を線路の上に、宙にばらまく。緩慢に落ちて行った一瞬の後、強い風に吹かれたかのようにリンドウが散り散りに飛んでいく。こころが痛いと勘違いするほど綺麗に、飛んでいった。
最初のコメントを投稿しよう!