1章

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「世界を救わなくてはならない」 鶴亀商事渉外部海外渉外三課の面々は、ゴウタニ部長の真剣な表情を見ながら固唾を呑んで続きを待った。 味も素っ気もないワイシャツに、いつ結んだのか結び目が随分ゆるくなったネクタイを締めた50絡みのゴウタニ部長は、噂によれば4年に1度しか家に帰らないらしい。 脂ぎった顔に恰幅の良い身体をして、顔はいつも疲れ切っていたが、目だけがぎらぎらと輝きを失わない。 家に帰ったら離婚届が置いてあった、なんて話は他の会社でもよく聞くが、ゴウタニ部長の場合はスケールが違う。家に帰ったら家族が新居に引っ越してたそうだし、次に家に帰ったときには娘が高校を卒業し、その次に家に帰ったときには娘が結婚していたそうだ。まさに会社員の鑑である。 「ハワイ沖で我々の製品を載せた貨物船が消息を絶った」 「ワオ」 オーバーなリアクションでゴウタニ部長の言葉に答えたのは、僕の隣に立っていたベトナム人新入社員のドンくんである。 浅黒い肌に端正な顔立ちの彼は、眉をひそめて「それはシンパイですね」と心底消息を絶った貨物船の乗組員を心配しているようだった。 ドンくんが少しずれているのは致し方ないところだ。彼は日本 語こそ完璧だが、まだ日本の文化というものをわかっていない。教育係である僕があとでしっかりと言い含めておかなくてはならないだろう。相手がドンくんでは鬼のゴウタニ部長も怒っていいのか笑っていいのかよくわからない顔をしている。鳩が豆鉄砲を食ったような顔とはまさにこのことだ。大きなゴウタニ部長の顔が一瞬真っ白になり、それから真っ赤になり、青くなり、今は若干黄色がかっている。あれ?信号機だろうか。 ぼんやりとした頭で僕は考えた。思えば昨日は会社で3時間ほど仮眠を取っただけだ。部長の顔が信号機に見えてきたとしても無理はない。 帰宅できない日が3日続いてからが本当の仕事だ、というのがゴウタニ部長の口癖だ。ということは、ようやく明日から本当の仕事に入るわけだ。今はまだ助走期間なのである。
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