1章

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ゴウタニ部長の号令で、僕とチョウノさんはすぐに踵を返したが、ドンくんだけがキョトンとした表情のまま立ち尽くしている。 「あの、CK305とはいったいなんなのでしょうか?」 ドンくんは唖然とするようなことをゴウタニ部長に尋ねた。僕はゴウタニ部長の雷が落ちるのを覚悟したが、彼は「知らないのかね?」と声を低くしただけだった。 「ベンキョウブソクですみません」とドンくんは素直に謝った。 素直さは彼の美徳である。確かにドンくんは経験が乏しく、日本の会社員文化もまだ理解が浅いが、その素直さは多くの面で窮地を切り開く。ゴウタニ部長はできの悪い生徒に言い聞かせるようにゆっくりと、噛み砕くようにドンくんに言った。 「CK305はCK200の後継製品だ。CK200の性能を引き継ぎつつ20パーセント以上ものコストダウンを実現した革新的な製品だ。納入数こそ多くないが、これからの時代はすべてCK305に置き換わっていくだろう。何しろ、歩留まりの良さ、品質の良さがCK305の売りだ」 ゴウタニ部長の怒涛の如き商品説明が始まった。まさに立て板に水といった調子だ。流れるようなその謳い文句のオンパレードは耳に心地よく、まるでモーツアルトのピアノソナタを聞いているかのように流麗で心を和ませる。僕がうっとりと部長の言葉を聞いていると、チョウノさんが僕の肩を突然掴んだ。 どうやら立ったまま眠っていたらしい。 「私たちは仕事に移りましょう」 気がつくと2時間が経過していた。セールストークはまだ続いている。部長はこの特技で今の地位まで昇り詰めたのだと聞いている。取扱製品に対する比類なき知識と聞くものの心を和ませる荘厳な話術のおかげで、疲労困憊に陥ったクライアントは最後には印鑑を押さざるをえない。 三年目の僕は立ったまま眠るだけで済んだが、入社半年のドンくんは耐えきれずに床の上に倒れ込んでいる。あの体制で眠ってしまったら、寝起きはさぞ首が痛かろう。無理もないことだが、教育係の僕としては、せめて立ったままで眠れと言い含めておくしかあるまい。
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