春朧

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ただこうして寄り添って居るだけで幸せに思えた。 手の届かない想いだと思っていたのが、こうして居るのが…。 「さて、そろそろ行くか」 「え、もう?」 「言うと思った。部活行けなくなる。こうして触ってたら、もっと触りたくなるし」 シャツの中に手が潜り込んで、さらさら撫でた。 「じゃ…キス…」 「ん」 にこっと笑うと、唇に微かに触れた。 「…や、もっと…」 もっと、とせがむ自分の声にドキッとする。 どうしよう。離れたくない。 離したくない。 涼也は柔らかに微笑みながら髪を撫でた。 「あぁ、もうどうしようもなく可愛い。口、開けて」 絡み合う舌。 息も出来ないくらい強く吸い合う舌。 頭の上までじんじん痺れる。 このまま、アイスクリームのように溶けてしまいたい。 車まで歩く。 コンビニでドリンクや菓子パンを買う。そう言えば昼食を食べてなかった。 車の中で、ゼリーを吸いながら着替えている。 「練習着?やる気満々だね」 「そりゃ、理央と行くのに、ハーフパンツじゃマズイだろ。その後ろの小さいバッグ開けて」 シルバーのバッグの中には黒い袋が入っていた。グローブの感触。 あの、軟式用のキャッチャーミット。僕が付け替えた赤茶の紐は綺麗な色のままだ。 空のスプレーボトル。 「いつも持ってる。ずっと…理央が手首に巻いているのと同じように」 「ん…」 「ボールと一緒に挟んである小さい袋、それ持ってて。今は、それくらいしかないけど、とても大事にしてるものだから、理央に預けておく」 「何?」 黒いビロードの小さな巾着の中には、ハート型をした赤い石が入っていた。 「宝石?」 「いや、ガラスだけど、大事なの」 「ん」 フロントガラス越しにかざして見ると、赤い光が糸を引く。 「綺麗だね。持ってていいの?」 「ああ。で、9月2日な、休んで」 「え?2日?何曜?」 「水曜」 「ん…多分大丈夫だと思うけど」 「絶対休んで」 「ん、わかったけど…」 「忘れるなよ。それと、これ、携番とアドレス。非通知にしないように」 「うん…」 膝の上のミット。 赤いガラス玉。 涼也の連絡先。 0902d-oir-yoya@…9月2日…? 「ん?どうした?」 「ん、あ、これ、空だね」 「ああ、くれって言うの忘れてたぁ」 この香り…と、塁に手を掴まれたのを思い出す。 塁の存在のずっと前から続く現在が、この瞬間も在る。
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