春朧

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5分ほどで学校に着く。 「身体、平気か?」 「ん…多分」 「ボラなんだから、無理するなよ」 「ん、でも、皆んな頑張ってるから」 「そっか。あれ?商売道具は?」 「教官室」 「で、この女子高生みたいなズタ袋は?」 「マネの七つ道具、と、スケッチ道具。見る?涼也の顔」 「見る見る。へぇ、理央、上手いんだな。似顔絵描きで食えるんじゃん?ふぅん、今の俺には苦労の跡が見える。実物の方がイケてるだろ?」 「ん…今度はもう少し上手く描けると思う。多分だけど…」 「おぅ」 「…涼也…」 「ん?」 「もう一回キスしたい」 「ばーか、行くぞ」 笑って頭を小突く。 僕はそっと紙の上の涼也にキスをして、黒い小袋を挟んだ。 大切な人、大切な物。 わかっている。 遠くて上手く描けなかった。 でも近過ぎても見えなくなる。 丁度良い距離は? まばらに生徒を見かけるが、グランドはまだ静かだ。 教官室へ声を掛ける。 「ちーっす」 「お、土井ぃ、なんだ、手伝いに来てくれたのか?お前、早橋が居るからって、やけにこっちに足が向くじゃねーか」 「はっ、流石山瀬部長、察しがいいっすね。今日は理央の助っ人」 「お前、悠真に英語もっと勉強せいって言えや。秋、レギュラーで使わんぞ」 「わっ、恥ずっ」 「そっか、夏終わったん だっけ…秋か…」グローブでボールを弾きながら呟いた。 真夏に秋を待つグランドに風が舞う。 ボールを投げ合って、少しづつ距離を取る。 久しぶりのキャッチボール。 一個のボールが往き来する。 弧を描き、互いのグローブに収まる音だけが響く。 心地良い音。 山瀬先生の大声が遮った。 「おぉい、お前ら、一寸内野の方水撒いとけ。外は済んでっから。ホースホース」 「りょーかいっ」 「スプリンクラー使や早いのに」と文句を言いながら、ホースを伸ばしている。 小脇にグローブを二つ抱えて、グランドに立つ涼也を見つめていた。 「理央ぉ、オーケー。水出してぇ」 よく通る声。 此処で、ずっと側に居たかったんだ。 バッテリーでいたかった。 ただ、それだけで良かった。 それが全てだった。 否 涼也に寄せる想いをボールにすり替えて、 それが全てだと思いたかった。 丁度良い距離は60フィート6インチだと…。 今は…。
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