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地下鉄の構内に響く、アナウンスの声。
その声に心を奪われたのは、たったの一回。
聞くことができたのも、たったの一回。
体の中心に響くような、すごく美しいテノール。
耳に直接囁いて欲しいような、そんなことになったら抱きついてしまいそうな。
単なる乗車を促すアナウンスだったのに、その声は耳にこびりついて離れなかった。
私はその声をまた聞きたくて、同じ時間の地下鉄に乗り続けたんだけど、結局、聞けたのはそのたったの一回だった。
まるで夢のような時間。
もう一度、もう一度だけでいいんだけど。
それは五月のことだったから、もしかすると新入社員の研修とかで、持ち回ったことだったのかもしれない。
誰とも知らないその人は、そのたったの一回で、別部署に配置になったのかもしれない。
それなのに……。
私は毎朝、会社に行くには少し早い時間に、その地下鉄駅でベンチに座り、読書するのが日課になった。
耳はいつも、場内アナウンスを追っている。
そして、心の中ではいつも、あのたったの一回をリピートし続ける。
なんたる執着心!
とても恋とはいえない。
ミーハーな執着心だ!
親友には呆れながら苦笑される。
そんなことは自分が一番わかっている。
そもそも、この感情になんと名前を付けていいのか、一番迷っているのは私だ。
たとえば、何回もその声を聞くことができていれば、そのうち聞き慣れて、「あれ、それほど格好よかったわけでもないか」と思えたかもしれない。
話しているその姿を見れば、「そっか、声だけか」とがっかりできてかもしれない。
身近にいれば、「性格最低だったか」と吹っ切ることができたかもしれない。
でも、でも。
ずっと自分に言い訳をし続ける。
この気持ちを忘れないための言い訳。
探し続ける言い訳。
季節はいつの間にか、一回りしていた。
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