第六十四話 黄昏時の

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 好きだから、どんなことをしてでも呑み込まれたら駄目なのに、バリケードは簡単に壊される。いつだってギリギリのところにいるから。離れることはできないから。いちばん甘いのは自分たちだ。  震えながら目を伏せることしかできない。自分が何を望んでいるのかもわからなくなる。引きずり込まれる。引力に気が遠くなりそうになったとき、緊張が解けた。  おそるおそる目を上げると、後ろから羽交い絞めされるようにして巽が引っ張られている。 「何してる?」  問われて、巽はきょとんと村上達彦を見上げる。 「何って……」 「いや。言わなくていい」  淡々と達彦は手を離す。巽はしばらく彼を観察してからくすりと笑った。無言で立ち上がる。 「実家に行くのか?」 「今日はうちに戻るよ」  土手を越えて住宅街の路地へ入っていく巽を見送ってから、達彦は蹲ったままの美登利を見下ろした。 「みどちゃん」  体を屈めて呼びかけると、いきなり胸倉を掴まれた。 「どうしてもっと早く来なかったの?」  薄い暗がりの中で瞳が底光りしている。八つ当たりだろ、と思ったが達彦は黙って彼女の非難を受け止める。威嚇する相手が違う。そんなことは本人だってわかっているだろう。 「どうして、どうして……」  あっさりと平常心をなくしている背中を撫でる。震える手で達彦にしがみついて何度も何度も殴りつけるような仕草をしては、彼女は激情を抑えられずにいる。鎮める方法ならあった。  以前、酷い抱き方をしたから優しくしたかったのに、それすら許されなかった。 「痛くして」  涙ぐみながら指図されて新手の拷問かと思う。吐き出すものなんか何もない。愛情に理由なんかない。同情だとも思わないのに。 「もっとキツくしてっ」  苦痛でごまかそうとする卑怯な女。やけくそのように膝の上に抱え上げて押えつけると、彼女は全身を震わせながら彼の背中にしがみついた。肩に顔を伏せて泣きじゃくる。こんなときにしかもう泣けないのか。意地っ張りすぎるだろう。  こうなると感情なんか焼き切れて関係なくなる。頭の片隅はまだ冷えていてそれがよくわかる。それなのに尋ねてしまう。 「どうして泣くの?」  甘い吐息に上擦った声がしゃくりあげるようにしながら愚問に答える。 「気持、ち、いいか、ら……」  嘘つきめ。
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