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「……先輩、さっきのやめた方がいいよ」
「さっきの?」
「帽子の影からチラって見るの」
ゾクっとした。あばたもえくぼというわけではなく、むしろ彼女に免疫のない男なんかイチコロに違いない。
「知らない男にあんなふうにしないで」
「そう? 気をつけるね」
美登利も意外と素直に言うことを聞いてくれたりする。率直な言葉には率直に、敵意には敵意で。そんなふうにありのままで彼女は応えるから、自分もありのままでいようと思う。
大好きなんだ、あなたが好き。その気持ち、そのままに。
「帰るからここでいいよ。どうもありがとう」
「バスすぐ来る? 一緒に待ってる」
「過保護だなあ」
美登利の自宅のある高台の住宅地へのバスは発着場の一番奥、ビルとビルの間の路地の角になる。
その路地から、小柄な男が走り出てきて何事かと思う。路地の方から力のない女性の叫びがかろうじて聞こえた。
「泥棒っ」
「池崎くん」
「うん」
駅とは反対の居酒屋街に逃げ込む男を追いかける。苦も無く追いつき、背後から蹴りを食らわせた。べしゃっとつぶれた所を押えつけハンドバックを取り上げる。
「ああ、ありがとう」
後ろから美登利に手を引かれてやって来た初老の女性が礼を言う。
「すぐそこに交番があります。ご一緒しますね」
「まあ、悪いわ」
「いえいえ」
にこにこと微笑みながら、美登利は女性にカードを渡す。
「ちなみにわたくし、こういうことをやってます。お困りのときにはお声をおかけください」
「さっき、何を渡してたの?」
「あげてなかったっけ?」
名刺サイズのフライヤー。喫茶ロータスの名前と情報、その下に、
『便利屋常駐。よろず雑用引き受けます。お気軽にご相談ください』
「先輩……」
だめだ、この人。またろくでもないことを始めた。正人は空を仰ぐ。
煩わしいことはキライなくせに退屈するのも大嫌い。本当にどうしようもない。
「タクマさんがよく許したね」
「タクマは私の味方だもの」
はあっと正人はため息をつく。
「危ないことしないでよ」
心底心配して言ったのに、美登利は無言でにやっとする。だめだ、この人。目が離せない。
こうしてまた新しい日々が始まる。池崎正人の受難はまだまだ続く。
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