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(良かったね)
見届けて微笑ましく思ったのもつかの間、帰ろうと体の向きを変えて目に入った風景につい思い出してしまう。ここで兄に足を洗ってもらったのは去年の文化祭のこと、まだ一年も経っていないのに随分昔のことみたいに感じる。それなのにまだ心は騒ぎ出す。
(駄目だ……)
帽子を押えてじりじり移動しようとしていると。
「先輩」
ひょいっと正人が下から見上げてきた。しゃがんだ美登利の前で自分も地面にへばりついてにこにこしている。
「いるのわかってたよ。ちゃんと見てた?」
「見てたよ、速かったね」
「来てくれてありがとう」
「うん」
「先輩が見ててくれるなら、おれはなんだってできる」
駄目だ、この子。天然すぎて。
「得点発表始まるよ」
「あ、うん」
それじゃあ、とあっという間に走り去る。
美登利は立ち上がって校外に出ながら「やばかった」と小声でつぶやく。ぎゅっとしたいと思ってしまった。いけない、いけない。でも、おかげで心が落ち着いた。
彼は不思議だ。安定剤のよう。だからといって欲しがったりしてはいけない。心に言い聞かせた。
三大巨頭や前体育部長の引退以来、実に平和なときが流れていた校内に久々ともいえる騒動が起きたのは翌日。
「池崎先輩。入学以来見ていて、あなたの活躍ぶりがよくわかりました。あなたをわたくしの彼氏にしてさしあげてもよくってよ」
「……」
学食で昼食をとっていた正人の箸から蕎麦が滑り落ちる。まわりの生徒たちが固まって見守る中、その一年生女子は肩にかかった髪を払って、ふんと顎をのけぞらせた。
夜の市民体育館。トレーニングの後、自販機の前でシューズを履き替えていたら小暮綾香がやって来た。こんなことは初めてだ。
「お店に行ったら、ここだって」
「何か用?」
綾香は顔をしかめてロータスのフライヤーを取り出す。
「またおかしなこと始めたんですね」
美登利は返事の代わりに薄く微笑む。
「便利屋さんに依頼なんですけど」
「なんでしょう」
「相談にのっていただけますか」
「そうだね。……喉が渇いたからお水を買ってくれる? お代はそれでいいよ」
言われた通り自販機で水を買って美登利に差し出す。
「で、何かあったの?」
「実は……」
聞くなり美登利は水を吹く勢いで笑い始めた。
「へえー、そりゃすごい。池崎くんも隅に置けないな」
「他人事みたいに言わないでください」
「目の前でやられたら気分も悪かろうけど」
「わたしは目の前でやられてるんです」
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