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「ああ、あの心中事件ね」
老人は小さな声で話し始めた。
「橘は知ってるよ。戦前、共産主義にかぶれてたからね」
「赤ですか?」
「今の言葉で言うなんちゃって赤だな。赤がかっこよく見えたんだろうね。お坊ちゃんだから」
「金持ちですしね」
「でも憲兵にビビッて、すぐやめたけどね」
当時は治安維持法で多くの共産主義者が拷問を受けている。
「まあ、橘にしてみれば女にもてたくて赤気取ってただけだし、命を懸けるほどの信念はなかったんだよ」
そう言って老人は本を取り出した。
「橘の文章を読んでみるかい」
それはいわゆる赤の同人誌「文芸戦地」。
「戦旗」や「種をまく人」のような本であろう。
文は稚拙。内容も模倣っぽい。確かににわか共産主義者と言えなくもない。
「戦後、その反動かね、愚連隊みたいな連中と仲良くしてたな」
橘ほどの金持ちなら、戦後、農地改革やなんかで没落したはず。
なのに今も酒蔵を営んでいる。
「親がほら、政治家かなんかだったから暇さえあればやってきてたな」
戦前と前後、橘にも当然違いが訪れたはずである。
家出少年は不良になったのだろうか。
「とは言え、その後いわゆるアプレゲールっていうのかな、僕もあの頃の思想にハマってたんだけど」
アプレゲール…。聴いたことがある。
終戦で価値観を失った若者が無秩序に犯罪を起こす。
太陽クラブ事件なんかは有名だが…。
「当時は太宰の後を追って死ぬ若者も多かったし」
老人は言葉を詰まらせていた。
何か共感するところがあるのだろうか。
太宰信者なのか?
「橘の心中事件は新聞に載ったんだっけ?」
老人は薄笑いを浮かべた。
「はい載ってます」
僕は記事のコピーを見せた。
「うん、この記事は間違ってるね」
「橘君は自殺はしてないはずだよ」
「確か、橘君じゃなくてこの女子の方に別の恋人ができて、心中したんじゃなかったっけ」
その後訂正記事は載っていない。
僕は考えた。
あの二つの死体は橘博司ではなく、別人。
それも心中でなく、心中に見せかけた殺人。
この条件に当てはまる犯人は橘博司しかいない。
女に別の男ができ、怒った橘は二人を刺殺し、心中を装って殺した。
その後女に引き取り手がいないことをいいことに、川に二人を心中したように抱き合った状態で遺棄したのではないだろうか。
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