さよならライラック

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「あの店員さんに、一目惚れしちゃったかもしれない」 「……一目惚れ?」 「しっ! 声が大きい! ほら、あのコーヒー運んできてくれた人。今ちょうどみっちゃんの後ろにいるからちらっと見てみて」 「……」 僕は無言で後ろを振り返った。なるほど確かに爽やかな顔立ちのその人は、女性にモテそうな風貌をしている。 「ね? 格好良くない? 笑顔も素敵だし、性格も良さそう!」 泣きながら僕に不倫男とのことを話していた涙はどこへやら、彼女は幸福そうに笑顔を浮かべていた。その姿はさながら初恋を覚えたばかりの少女のようだ。昨日別れたばかりだろとか、前の前の彼氏のバイト先なのに気まずくないのかとか言いたいことはたくさんあるが、泣いているよりはいいのかもしれない。 ふいに、彼女が僕に顔を近づけてくる。また心臓が妙な動きをして、僕は困惑した。これはきっと今までにない距離感だからだ。だから、そんなまさか。 「応援してくれる?」 と、嬉しそうに池園が微笑むと同時、がしゃん、という音が後ろから聞こえた。はっと振り向けば、池園の一目惚れ対象である男がグラスを割ったところらしかった。池園は驚くべき素早さでハンカチを掴んで席を立つと、男の割ったグラスの処理を手伝い、溢れた中身を手早くハンカチで拭いた。恐縮する男に笑顔で応対して戻ってきた池園は、これ以上ないくらい機嫌が良かった。 「思わぬきっかけができた! これは神様も応援してくれてるってこと!?」 目を輝かせる彼女の手には茶色く汚れたハンカチが握られていた。刺繍されたライラックもきっとその色を失い汚れてしまったに違いない。 「すごくない? ねえ、どうしようみっちゃん! 今度こそ運命の人かも!」 池園はやはり馬鹿なのだと思う。今までも何回も何回も運命の人が現れて、その度に破れてきたというのに未だに運命を信じているのだから。 僕は頬を染める池園の顔をみながら、コーヒーを啜った。氷が溶けた上にかき混ぜすぎて泡立ったそれはひどく不味くて、僕は池園以上の自分の馬鹿さ加減に、うんざりと溜息を吐いたのだった。
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